千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

 渡り鳥がゆく <沖縄:四百年続いた王朝>


首里城へ行った。坂道を登った高台にそびえていた。
この琉球中山王国は尚氏が開祖であり、途中家臣の金丸氏が
クーデターを起こしてそのまま尚氏を引き継いで、
なんと四百年も続いたという。
          

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              首里城天守閣と龍柱 
英国にパックスブリタニカがあったように、
アジアでは中国が中華思想の元、冊封制があった。
臣下の礼を尽くす引き替えとして、王国を認めてもらう制度だ。

当時、統治を認めてくれる中国に対しては友好的だった。
さらに貢ぎ物をすると(朝貢貿易)十倍返しで手に入らぬ物品が
得られて、実利の裏付けもあった。
そのため、首里城でも、福州園などでも龍の指は4本だよと教わった。
観察すると確かにそうで、それは五本指が普通の中国への
謙遜の表現であった。

ある時、軍隊がやたら強かった薩摩藩に侵攻され、付庸国となった。
秀吉の命令で朝鮮出兵のおり、兵を出せといわれたが
戦いになれていないため金をだすこととした。
金が不足していたため、薩摩藩から借りたという。

     

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            琉球


琉球王国は存続するためにあらゆる知恵を考えたのだった。

しかし、そのお陰で四百年もの長きに亘って戦乱なしで
そこそこ平和を満喫したに違いない。
太平洋戦争で対馬丸の児童達や、多くの人民が戦禍に
犠牲となり、また焼け野原になったのを除いて。
      

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          県民が乗る26隻の船が撃沈

 

      

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             数え切れない人名簿

首里城は高台にあって風がきつかった。西風だった。
日本式城ではなく、中国式の城で宮廷衣装を着たガイドの説明は
とても簡にして要を得ていた。中には抹茶を楽しめる広間もあるという。

コンシェルジや地元の人の教えも含め、現在だけではなく、
少なくとも四百年の歴史に思いを馳せて沖縄を眺めると、
異国情緒の味わいに深みが増すのだった。   1/10記