富の托かり方 41-2 < 銭屋五兵衛Ⅱ-海の百万石>
大商人としての足跡:海の百万石
「海の豪商」「海の百万石」と謳われた銭屋五兵衛(ぜにや ごへえ)について
銭屋五兵衛記念館や銭五の館を巡って調査してきた。
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海への雄飛
銭屋 五兵衛(安永2年11月25日(1774年1月7日) - 嘉永5年11月21日(1852年12月31日)は、江戸時代後期の加賀の商人。両替商、古着屋、海運業者。金沢藩の御用商人を務めた。姓名の略から「銭五」とも呼ばれる。幼名は茂助。本姓清水で銭屋七代目。
銭屋商訓三ヶ条というのがある
一.世人の信を受くるべし
二.機を見るに敏(サト)かるべし
三.果断勇決なるべし である
ここに銭屋五兵衛の商売の本質が凝縮されていた。
大まかな彼の生涯をお伝えする内に、折に触れ三ヶ条を感じて頂けると思う。
◇大富豪への道
銭屋は戦国時代に滅亡した朝倉氏の末裔を称し、
初代の吉右衛門が金沢に移住して以来、両替商のほか醤油醸造・
古着商などを手広く営む商人だった。
父・五兵衛が金沢の外港である宮腰(今の金石カナイワ)を本拠に
海運業を始めたが、不振となりいったん廃業。
その夢を実現したのが子の銭五で39歳の時、
質流れのボロ船で海に乗り出し海運業を再開した。
他の家業は息子にまかせての決断だった。
宮腰は当時隆盛だった北前船航路の重要な中継港であり、
米の売買を中心に商いを拡げた。加賀の米を蝦夷(えぞ)へ売り、
その帰りの航路で蝦夷の木材や海産物を運ぶ回漕(カイソウ)である
。危険は伴うものの儲けは大きかった。
銭屋のしきたりに則って家督を譲ったのが、文政8年
五兵衛53歳の時だった。長男の喜太郎が17歳の時。
おりしも幕政や諸藩の天保の改革時期であり、
財政窮乏していた加賀藩の要請に応えて勝手方御用掛として
藩政実務の年寄であった奥村栄実(テルザネ)と結み大きく活躍した。
御用銀(金)調達(借金調達)の任務にあたるとともに、
藩の御手船裁許つまり藩が所有する商船の管理人となって、
商売を行い巨利を得た。
銭五は巨額の御用金と引換えに藩の御手船裁許となる。
全国の港には、鵞眼銭印(ガガン)と加賀梅鉢紋を印した
千石船の帆がひるがえったという。 ガガンとは穴開き銭。
船の模型 歴史博物館
全国の支社34カ所、持船は200艘を数え、全資産は300万両という
加賀一番の大金持ちになったのである。
名実ともに「海の百万石」である。
記念館にも船があり乗って航海している体験ができる
資産300万両とは現在価格にすると3000億円位であろう。(末記註一)
また、各地の用地を買収して新田開発事業や、支店を開設するなど
業種・商業圏を拡げ、後に記す海外への進出など、
将来の経済界の変動に備えたリスクヘッジも行っていた。
また銭五は、外国との密貿易を行っていたことでも有名である。
対馬までは本邦の服装と帆で航海し、対馬を過ぎると
朝鮮の服装と帆に変装し朝鮮へわたった。
これをまねるものが当時数知れぬほど多く、対馬の役人の目を
かすめては朝鮮へ行ったという。
もちろん当時は鎖国体制下、外国との交易は厳禁だったが、
金沢藩への献上金への見返りとして黙認されていたのであろう。
銭五は本多利明の経済論や、大野弁吉などに影響を受けており、
海外交易の必要性を痛感していた。
蝦夷地や択捉島ではロシアと通商し、
礼文島には「銭屋五兵衛貿易の地」の碑が建てられている。
樺太ではアイヌを通じて山丹貿易を、また
自ら香港やアモイまで出向いたり、アメリカ合衆国の商人とも交易した。
なんとオーストラリアのタスマニア島に領地を持っており、
同地には銭五の石碑があったという。
◇銭五の夢『銭五開き』と没落
しかし奥村が52歳で死去し、対立する改革派・
黒羽織党(クロバオリを着た党派・フグ)が藩の実権を握ると、
銭五の立場は脆弱となる。
1848年(嘉永元年)2月、御手船・常豊丸が能登沖で難破。
船の建造費用は、すべて五兵衛が負担したが、加賀藩は
御手船を難破させ、藩米を無事に運ばなかった責任は重大だと、
御手船裁許を取り上げた。
そんな中、老境に達した銭五が描いた夢、
それは、河北潟の埋立であった。
世にいう「銭五開き」である。
河北潟は金沢の北隣、面積約2,300ヘクタールという
海に面した県下一の大湖である。
銭五は、潟を埋め立て新田を開発すれば数万石の増収になり、
人々のためにも加賀藩のためにもなると考えたのだ。
加賀藩は1851年に工事を許可。
費用の大半を銭五が負担しての工事が始まった。
河北潟の干拓には他の豪商は手を引き、
80才の銭五が一人でである。
しかもこの壮大な事業は二年目にして
悲劇の結末を迎えることとなった。
難工事の上、雇った労務者とのもめ事や、
地域住民や沿岸漁村の反対を招き、工事の妨害が起きる。
工事は遅れ五兵衛自身高齢でもあり、
完成を焦るあまり埋め立てに石灰を使った。
石灰は毒ではないが、投げ込んだ所で魚が窒息死することがある。
これを見ていた住民が銭屋が毒を流したと言いたてた。
事態は一転。加賀藩の政変がらみの疑獄へと発展していく。
藩もからんだ密貿易の発覚を恐れてともいう。(註二)
真相は、今もって謎で多くの小説の題材ともなっている。
ともあれ、反対派の中傷による無実の罪で、
五兵衛は子の要蔵ら11名とともに投獄された。
噂を否定した五兵衛は1852年獄死、享年80才。
息子は磔(はりつけ)にされ処刑者の総数は50人を超した。
財産は全て藩に没収されたのである。 家名も断絶。
江戸幕府が鎖国政策を改め、開国する日米和親条約締結の、
わずか2年前のことだった。
(註一)さて没収された三百万両、満瑠壺はこれが気になる。まずは現在価値を推測してみよう。
一両の重さ18g~13g 金含有量は約85%~55%
千両箱:重さ20㎏前後
歴史博物館の実物千両箱
ネズミ小僧でも抱えては走れない
江戸末期は貨幣鋳悪で、一両は現在価値5万~15万円ほどでした。すると、
300万両=@5万*300万=1500億円 @15万=4500億円
中間で@10万として3000億円の現在価値があるようです。
近年の世界ヘッジファンドマネジャー個人年間最高報酬が2000億円ほどに匹敵する
(註二)
加賀藩は、1852年嘉永5年8月、藩医・黒川了安に調査を命じ、了安は現地を詳しく調べた結果、湖水の自然腐敗が原因であると報告した。
後に勝海舟は、「銭五が密貿易をやっていたのは、幕府も知っていたが、大目に見ていた。それを加賀藩が処刑したのは、早計だった」と語ったという。