千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

富の托かり方-45 岩井勝次郎              本(もと)立って道拓く

 

☆君子は財を愛す、これを取るに道有り

 

財を愛すとは、大切にし
生き金として遣うという意味である。

普通は財にとらわれ、貪り貯めこんだり
無駄遣いで終わることが多い。

先人には沢山の優れたお人がいて、
智恵の限りを尽くし
汗水垂らしてきれいに稼ぎ、
見事に遣った人が多くいた。

 

関西にも多くが輩出して、人知れず
今なお社会の灯火となっている。
ほんとの事業である。

私もその偉人の恩恵に浴しているので
岩井勝次郎を取りあげた。

 


☆事業家 勝次郎

 

岩井勝次郎は商社岩井産業を大きく育て、
関西に多くの優良生産会社を創業し
国内産業の発展に貢献した。
昭和11年12月21日(1936年)病のため73歳でこの世を去る。

 

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丹波に生まれた勝次郎は、元の名は蔭山勝次郎。
十一歳のとき父を病気で失い、大坂京町堀通りの伯父、
加賀屋岩井文助の商店に奉公し、腕と努力を認められ、
婿養子となったので名字が変わった。

この舶来物品商に奉公中、神戸の居留地に通いながら
西洋の文化に接した。そこで、貿易人としての
経営感覚や姿勢・実務知識・語学を身につけた。

大きな視野があったため、明治29年(1896年)に勝次郎は独立し、
現在の大阪市中央区南久太郎町4丁目に岩井商店を開いた。
後の総合商社岩井産業に育て上げ、日商岩井となり現在は双日である。

その優れた商才で外国貿易にとどまらず、
次々と工業会社を設立して事業を拡大した。
詳細は他に詳しいので、ここでは簡単に留める。


岩井商店が鉄鋼商社として体制を確立したのは、
明治の中頃から大正にかけである。

勝次郎は居留地における外国商館との不平等な取引慣習に
常々不満をもち、大阪で初めて海外の商社と直接取引を開始した。

加えて、それまで外国商館との取引は洋銀前払い決済が主流だったが、
勝次郎は横浜正金銀行副頭取の高橋是清(ダルマ宰相)に頼みこみ、
個人商店として初めてトラスト・レシート(信用状)による輸入貨物の引取りを行った。

岩井勝次郎は、主に鉄鋼製品の輸入を開始し、
アンドリュー・カーネギーが保有していた製鉄会社の合併でできた
巨大製鉄会社USスチールの鉄鋼を手がけた。


マルコがこよなく尊敬するアンディー(カーネギー)が
ここに登場するのがとても嬉しい。

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          アンディー

 

さて、国産化を痛感した勝次郎は八幡製鉄所が稼働すると
同社の引き受け問屋となった。
又、自ら国産化を目指して、大阪鉄板製造会社を設立。

このように、岩井勝次郎は初めは貿易商人だったが、
海外の商品を輸入するだけでは日本国の発展に寄与しない、
なんとか外国商品に負けない優秀な商品を作りだしたいと
願い、実行に移すのである。

この志を実現するため、自らの貿易によって得た利益を基に、
関西ペイントを初め6つの生産会社を創業した。

現在のトーア紡コーポレーション、日新製鋼ダイセル
トクヤマ関西ペイント日本橋梁等であり、
これらの会社は岩井勝次郎ゆかりの親睦組織「最勝会」
として現在も交流が続いている。


大阪企業家ミュージアムに岩井勝次郎の展示がある。
躍動の時代を感じる

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☆精神性高い人財育成の 勝次郎

 

岩井勝次郎は、1914年からの第一次世界大戦後の反動不況を予測し
全社員に訓示を発した。
「投機の禁止」、「人・資本・経営のバランス」、
「狭き深きを主眼とすること」などを戒めとし、堅実な経営を行った。

同時に成金景気による人心の荒廃に心を痛め案じた。
いうなれば、1980年後半のバブル景気のような時にである。

勝次郎には、事業家以外の精神修養者としての顔がある。
それが彼をして精神性高い人材の育成へと結実してゆく。

 

勝次郎は商人の知識も外国語もすべて独学で会得した。
この自助努力のお人柄は両親に負うところが大きい。

彼の心身には、父親からの「国家に役立つ人間になれ」という遺言と、
母親からの「どんな困難にも耐えるのですよ」という教えが
しっかり植えつけられていた。

父は行く路を照らし、母は歩みの心構えを示す。

現代では「迷惑かけたらあきまへん」がふつうだが、
これでは小さな人間しか出てこない。

 

彼が親の教えや理念を貫ぬくには多くの試練があった。

1920年代から1930年代にかけて起きた全国的な恐慌の嵐に
彼の多くの事業も危機に瀕したし、翼下の諸会社も例外ではない。

多くの企業が閉鎖や撤退をしたが、岩井勝次郎はどんなに困難であろうと
企業経営は一時の利益によって止めたり始めたりしてはならない、
として決してその信念を変えようとはしなかった。


このとき彼を支えたものに「禅」があった。
仏教哲学の目的は生や死についての「悟り(高次の気づき)」だが、
「禅」では座禅の行を通じて、この悟りを会得しようとする。

岩井勝次郎は座禅を通じ、さまざまな雑念の中から経営理念を
貫ぬく智恵を見出して実行努力を重ねた。
事あれば座禅して考え、事なければ又座禅して黙考するのである。

 

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           勝次郎 禅定


経営に禅の精神を取り入れ自ら律することで、反動不況や
その後の恐慌を乗り越えることができたに違いない。

もともと勝次郎は経営でも道義を重んじることを第一とし、
その基礎を禅に求めて早くからその道を歩みはじめていた。

「君子は財を愛す。これを取るに道有り」である


そこで得た結論は、経営とは所詮人であること、
そして人は精神的修練を積んでこそ初めて経営者たり得ると
考えるに至った。

実務者ならではの勝次郎は、禅を通じて人間形成をしようと考え、
1919年(大正八年)年、神戸御影にあった自分の別荘を改築して
禅道場「伝芳庵」を開いた。

師家として、やがて長岡禅塾の初代塾長になる梅谷香洲老師を拝請した。
(最初の一か月は橋本独山老師)  
自ら参禅精進に励みながら、その場所を広く社会人や
神戸高等商業学校(現、神戸大学)の学生にも開放した。

伝芳庵では毎日曜日に朝九時から坐禅、十時から提唱、
十一時から独参、このほかに臘八(12月)をふくむ年数回の大接心
(心をおさめる)が行われていた。
これらの行事は、現在の長岡禅塾でもほぼ踏襲されている。

 

晩年になると勝次郎は本格的禅道場を創設することを構想しはじめ、
1933年巨額の私財を投じて京都郊外の地に"長岡禅塾”を開山(創始)した。
「聖人の財を用いるを見るべし」とはこのことである。

阪急長岡駅から、長岡京を眺めつつ過ぎると
比叡山を北東に臨む静寂な地がある。

勝次郎はそこに敷地を買い求め、
財団法人長岡禅塾の設立にむけて着々と準備が進めた。
残念なことに勝次郎は設立趣意書を書き上げて一か月もたたず
1936年他界してしまったのである。
遺志は引き継がれ、1939年(昭和14)年四月ついに開塾式を迎えた。


現在の長岡禅塾は日本国旗のような爽やかさがある。

まず宗派宗門に属しない。
それは禅という方法を活用しての人間修養を目的とした
大学生対象の禅道場だからだ。
つまり、公益財団法人である。

 

学生は禅塾に寄宿し、朝晩の禅の実践を行いながら
京都・大阪の大学に通う。学業優先を前提とした上で
禅の修行に触れることのできる日課が組まれている。

サイトから記すると
http://nagaokazenjuku.or.jp/

 ∞

『公益財団法人 長岡禅塾の特色』
禅による人材育成および育英事業を目的として
設立された、大学生対象の禅道場です。

 

塾生は個室(冷暖房付)を与えられて寄宿し、
大学に通いながら塾では禅の実践を行います
(老師について参禅することができます)

 

運営は当塾ゆかりの企業・団体からの寄付金によって
行われているため、寮費は一切徴収していません。

 

将来の進路についても何の拘束もありません。
身心の健康な大学生であれば、男女・国籍は問いません。

 ∞

 「本(もと)立って道生ず」と言う。
立派な人は根本を大切にする。根本ができれば全ての道を可能にする
つまり、岩井勝次郎は「高く本質に眼を著ける」偉人だった。

 

   枯葉を植えても芽は出ない
   木肌を削って植えても芽が出ない。
   けれどもよく実った種を植えると芽が出る。

だから立派な人は、種を探し蒔いて育てるのである。

 

大切に財を築き、将来を担う精神性高い人財育成へ遣った
生き金遣いの名人である。

  

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              求む道  長岡禅塾  

 

------ おまけ雑談 ------

さて、次はマルコとの縁です、
時間があればどうぞお読み下され。

 

☆不思議な縁

私が幼き頃、幼稚園など行けなかった。
今いう待機児童の先駈けだ。
それを幸い、遊び呆けていた。

 

ときおり、坊様が父を訪ねてこられた。
後で知ったがこの方が高僧、長岡禅塾の森本省念老師だった。

膝に乗せてもろて、持ってきた漫画を読ませてくれたのを覚えている。
この大阪弁丸出しの老師は、父と気が合ったのかよく来られたが
どのような縁かは、最近まで知らなかった。こういうことである・・・


父は学生時代に「人生に悩んで」いた。
尊敬する鈴木大拙博士に、こころ内を切々と訴えた。

すると返事を諦めていた頃に、慈愛溢れる手紙を
受け取り欣喜雀躍したという。

 

「私から聞いたと、森本老師を訪ねなさい」との温かい配慮が
書かれていた。大拙博士の一番弟子が森本老師だった。
すぐさま訪問した父は、禅塾に通いそして道が拓けたという。

まさにまさに勝次郎の、「本(もと)立って道生じた」。

     

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            広大な敷地内の禅堂

 

 

元大阪の商家出身の森本老師は見事な大阪弁で提唱(講座)された。
私マルコも、特に悩みはなかったのだけど、学生時代
父に連れられて幾度も参禅した。

 

その時に気づいたのが、道を求める同志の爽やかな付き合い。
若い私にも薫風のように感ぜられた。
勝次郎の後継者岩井雄次郎氏、東洋紡の創設者谷口氏、
武田薬品の森本寛三郎氏など精神を磨く多くの人々と
普通には考えられない付き合いを父はしていた。

 

私はこれといった宗門には属していないが、
友人達の声がかかり、あるとき雲雀丘花屋敷の集会に出かけた。
その時の教祖の風格あるお人がなんと勝次郎の孫娘で、
さきほどの東洋紡谷口氏の息子に嫁いだ人であった。

その聡明さと品格に感服している間に、見事に逝かれた。
二十年の願い、「美しく逝きたい」を
そのまま体現しての見事な往生だという。

 

近ごろとりこになった金沢では、
鈴木大拙館に通い詰めている。
縁とは得がたいものだと深々と感じ入る。

 

そして、単に影響を受けるに留まらず、
後進によい縁をバトンタッチしたいと
近ごろ意を強くするのである。

 

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                    道拓く
       https://www.canstockphoto.com/illustration/pearly-gates.html