千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

 不信の気づき   :高雄仏光山寺/台湾


よく「マルコ、おまえようそんな事信じるなぁ」と
友からいわれる。

 

信じてだまされたらそれまでよ!と開き直っていた。

 

“ 信じる ”のは一方的な場合が多くて、
自分の都合や期待を優先する思考が潜んでいる。

  「信じていたのに!」のあきれ声は代表だ


中学時代だったか、苦手な『社会』授業で覚えている言葉に
 「ほも、ほみーに、るーぷす=人は人に狼だ」がある

 

マルコは結婚という制度を利用して自分だけの欲しい欲しい欲を
満たすことを求めるおなごに失望ばかりした。

 

また、表面ではきれい事を言っていても、
ことのつまりはカネカネ族の人におおく会った。

 

だから人は人に餌を求めて近づくんだという
街のハトと同じだとの不信が悲しく積もっていた

 

けれど、悲色の眼鏡を外してもいいかもしれない

 

自らがそんな悲色眼鏡で見るとそうみえてしまうものだ


不信は人を離反させ、互いを閉じこもらせる。
不信は日々自らの生命の土台をくさらせる。
不信は争いと共倒れをよぶ。


信には、人は信にて応じてくれることが多い。
中にはそれを利用して詐欺の類いをする輩がいたら
道を伴にする人ではない、離れてひとり行くがいい。

と近頃腑に落ちた。

 

過去の不信の堆積に気づいたいま
これらを削り除くことを日々心がけよう

 

ところで、佛光山寺の人々はにこやかな顔で
信じてくれた・・・・・

 

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                       父上の睡蓮