千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

縄文の平和と滅亡調査-33 <英勇5-最終-范蠡> 長文

 

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            范蠡像 はんれい

名を知らぬはないほど古来より有名な御仁。
呉越乱戦時代(紀元前500-700年ほど)、越を盛国に導いたお人です。
武人として戦略家、巧みな商い人としてもすんなりこなす
“自由自在の人”。

よく言われるのが“人生の達人”は言いえて妙である。

范蠡の記録は史記「貨殖列伝」によるものである。
それに二千数百年の歳月に美化され尾ひれがついたであろう。

 

☆関西弁で足取りを見てもらいましょ。

  

◆世界に大きく羽ばたく蠡(レイ)
紀元前536年7月26日にオギャーァ!と生まれたことにしとこ。
学者さんは本気にせんとって。

若い時のくわしいことは、ようわかりません。
そやけど、あちこちの文献を見てると、今風にゆうたらね、好奇心に満ちた坊やが海外留学の機会を得て、大局(全体像)を俯瞰できる力を身につけた様やな。

 

范さんとこは爺様も父さまも気張って家を盛り立てたんや。
小作は草が生えても抜かんけど、大農は草が生えんように畑を手入れする。
「未萌」に処するってやっちゃな。だからいやでも大農になった。
お天とうさまとも、地面の神さんとも上手うぉずにつきおうて富を手にしたんや。

 

そんな范家で育った蠡(レイ)君は、かわいい子やったんやろ。旅させてもろた。
戦ばっかしの中国を隈なく見聞したんやな。親御さんえらいな
世間っちゅう知恵の泉を遍歴して飲んだわけや・・・・ええなぁ

そやから、あんた、“井の中の子蛙”やおまへんわ、ワハハ

 

 

◆計然から学ぶ世の中の仕組みを諦める

 蠡(レイ)君は濮上(ボクジョウ)塾に時々出向いて学んどった。
当時といやぁ塾長の計然は、孔子はんと同時代の経済通でソロバンが得意やった。
そんな時分に「高い時に売り、安い時に買え。市場(イチバ)の商品と流通する貨幣の循環を淀みなくしたらええねん。そのために気象の変動周期、大げさにゆうたら太陽黒点や星座の位置など、科学的データを活用すること大事や。そして民衆を動かすには、金を褒美にする。これをわきまえてりゃ、成果に結びつく」と教わった。

 

レイ君はいろんな真理を明らかにする、その多くの気づきを得たんですわ。
だからね、本当の意味で諦めの多い人やった。
今では狭意で、諦め=ギブアップやけど、本当の意味は可能性の見極めと諸条件の転機を見抜く慧眼のことでっさ。

蠡君はほかにも孔子や昔からの老荘思想も多くの人から学んだなぁ。子貢とも親しゅうしとった。それに多くの人と接する旅で、自然と心理学的な学びや人を見抜く目もついたやろ。

 

ン?蠡レイってどういう意味かいなって? 説明しとこ。虫の種類やおまへん
ニナって貝おますやろ、 ほらがい ひさご(ヒョウタン)の意味らしい
お父さんおもろいお人やなぁ・・・
            ほら貝吹いてひょうたんナマズ

 

 

◆戦術成功、請われて越国将軍に
・世界情勢
歴史は廻りて~ぇ    有名な呉と越の戦争ばっかしの世ぉ~

 

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細こう国々に分れた世界で、呉王闔閭(コウリョ)は敏腕政略家の伍子胥(ゴシショ)と、あの名だたる兵法家孫武(孫子)を得てやる気満々。お隣はんの大きな楚へ侵攻している留守に越王允常(インジョウ)が攻め込んだもんやから急遽兵を帰したんや。


怒ったわなぁ呉王闔閭。劣る発展途上の越やとおもてた子犬に噛まれた!って訳や。
これから呉と越、犬猿になってしもた。


呉に対抗して、越も民間から優秀な計然を顧問にしてたんや。

争い火付けの越王允常はBC496年に逝ったもんやから、子の勾践(コウセン)が23歳で王位についた。


若い勾践は計然を政治顧問として相談し、計然の推薦で塾の俊英、文種(ブンシュ)を内政顧問として採用して備えを固めようとしましてん。

 

「猿の呉が内政の整わん子犬越を攻めるぞ」と忍者からの知らせが句践に!、
慌てて顧問計然にどうしたものか聞きましてん。
「ちょっと、待っておくれやす。わし老いぼれとるし軍事戦略には疎いもんやさかい、別のごっつい優秀なんを紹介しまっさ」と范蠡を名指しする。

 

ぼんぼん王勾践は、天子としての招集状をせっせと書き始めたんやが、計然は「范蠡は命令でやすやす尻尾振る男やおまへん」と助言して段取りし、文種を行かせたんや。

 

 

塾の仲良しだった文種は遠慮もいらんから、范蠡に酒注ぎながら直球質問や。
種 「お前、呉軍の侵攻にどう処すや?」
蠡 「呉の孫権は越攻めには加わらんと聞く、枯葦作戦はいかがやろ」
種 「枯葦・・・お主のことや、よし聞こう」
    カクカクシカジカ
二人はカンラカンラと笑って、膝を打ち笑い転げた。
文種は帰って句践王にお目通り、「これはいけまっせ、太鼓判」と喜ばせた。

 

さて紀元前496年、呉軍は浙江北岸に押し攻めてきたとの間者の情報。
呉軍は精鋭で孫権仕込み、対峙する越軍は金をうんと弾んだ末にかき集めた数揃え。
精鋭兵士の数は雲泥の差。

越兵は葦に潜んでただ幟を掲げて打ち振ったり、意味ありげに狼煙を揚げかく乱する。
突如響きわたるは激しき爆竹音!煙が雲散するその中を、不気味な衣装の越兵(罪人)が十名。横に並び呉兵の目前までノシノシ歩む。固唾をのんで凝視の呉兵、十の越兵抜き放つ凍てつく刃がキラめくや、なんと自ら首を刎ねるやおまへんか!
おいおい、また十の越兵が無表情でザックザック足音高く葦を踏みわけやってくるで。血が体から吹き出し、頭がころりドサッと葦原に落ちる。また!十名くるやおまへんか・・・
きしょくわる~   呉軍仰天してざわつき、恐怖が襲う。
たじろぐ隙に浙江は満ち潮到来、なんと奇怪、体中に入墨の決死隊が勢いよく呉軍本陣めざして斬り込むんや。
越兵は地獄のこわもてやおまへんか!と呉軍は浮足立ってたじたじ。

しばらくして越は数を増やしつつ第二、第三と恐ろし気な精鋭隊を殴りこませておののかせるもんやから、じわじわ退がるしかあらへん。呉軍は北30キロも後退し、
砦にこもろうとした。ひく兵は弱い、そこへ・・・数少ないが越の勾践率いる親衛隊が攻め入り、激しい戦闘が開始。恐怖の余韻を抱いた呉軍はついに敗走してしもた。
范蠡の策で呉王闔閭討ち取り隊がしつこう追いかけて、矢傷を負わせることあんじょうできたんや。

なんせ、死刑囚に名誉回復と残された家族への厚遇条件に首落部隊を募ると、応募殺到やて。高賃金の異族傭兵も見るまに集まったそうや。

 

さて、矢傷と悔しさでうめく呉王闔閭は、息子の夫差を呼び寄せ「新王を譲る、必ずや勾践を倒しておくれ」と遺言して逝ってしもうた。悔しいわなぁ

 

欣喜雀躍の越王句践、この戦術を編み出した范蠡を家臣にせんと手を尽くし申したわ。

 

范蠡は別の道を考えていたらしく、乗り込んできた王様に大慌て。えらいこっちゃ!
「わし才能あらへんので」としきりと謙遜辞退したが、句践は若さゆえ王命を振りかざして、家臣に服せよと繰り返しまんねん。
当時、王さんに逆ろうたら一家首飛びまっしゃろ、范蠡弱りましたわ。
ま家人達に目配せしてOkサインをもろたんですわ。

 

勾践はまた雀躍、范蠡は対呉国戦略司令官に任命されはって、献身努力することとなりもうした。


范蠡の宮仕えと会稽(カイケイ)の恥辱
そんなことで、国の存亡の片棒担ぐことになった范蠡
えらい難儀なもん背負うたこっちゃ

歴史の教科書にあるんで詳しくは言わん。

 

父王から復讐を言い渡され呉王夫差は若い血潮を燃えたぎらせ、薪の上に寝て(臥薪)復讐を練ってましてん。

 

一方の得意満面王句践は、范家の侍女西施がことのほか別嬪と聞き及び、后にと命令を下し手の内にしてしもうたんや。
西施って美貌はさておき、マルコの好み大した女やからね。それもさておき・・・

 

呉王夫差復讐を聞き伝えて、句践はおののきおそれじっとしてられん。
范蠡の押しとどめにも聞く耳持たず、四万兵を挙げ呉に攻めますねん。
溺愛の西施にええかっこおうしたかったんやろなぁ。そこいらの若い男と同んなしや。
ま予期せん侵攻で逃げる呉軍を追いかけ調子に乗って、迎撃されて数千の兵しかおらんという完全窮地に追い込まれたんや。

 

ハーハーゼーゼー会稽山まで逃げて「俺は死ぬ死ぬ」とわめく句践。
「殿!ご深慮を!」ともともと出陣に反対した范蠡は、勾践の泣き言をひとしきり聞いてやり、窮余の策の手立てを納得させた。

 

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             東奔西走の范蠡

 

 

まず文種が終戦懇願に赴くこととなり申したんや。呉王夫差は傾いたが、世知に深い伍子胥が強く反対する。

「延命させれば、必ずや将来に禍根を残しまんで」

夫差の目先の感情に左右される小器を父闔閭に補佐するよう頼まれた伍子胥でしてん。

 

呉王であることを見せびらかせたい夫差は「度量のあるとこ見せたろ。句践は宝財を献上し、われの臣下となると申して居る。おまけに、憐れみを示すのは(カッコ)ええし」と押し通したんですわ。

伍子胥がっくり、文種・范蠡ニンマリ。

 

 

范蠡の東奔西走・自ら人質に
范蠡と文種は色々戦略練ったね。
「向こうの強みはなんや」
「経済豊、人材豊富の伍子胥(ゴシショ)と兵法家孫武
「さよか・・・あんた経済面で越をいっちょ前にしておくれやす」
「お前はんは?」
「うーん、目に上のたんこぶ取り払をしまひょ」


文種は庶民を鼓舞して食を満たし産業構造改革、空になった国庫が膨らまっせたんでっさ。
范蠡はみんなと相談して、呉国の重鎮で賄賂に弱い伯丕(はくひ)を賄賂攻め美女攻め。

その効果絶大で伍子胥は讒言失脚・壮絶な最期を遂げさせられたんや。

これみんな范蠡の自前やで!    金持ちがスッカラカン
税金目当ての今の政治家とちゃうねん。

 

讒言ていうのはそこいらじゅうにあるけど恐ろしなぁ。
信じるあほがおるんや、器が小さいほどなぁ、そんなもんや

 

さてグルメで呉王夫差が腎臓を患ぅにいたり、医師がその尿を舐めその味を教えてくれたら治療法が分かるとゆうた。
そこで罪人として牢屋にいた勾践が味見をして、呉王は健康体となった。


その功績と美女・賄賂をたんまりせしめてる重臣伯丕は進言して、呉王に勾践の釈放を認めさせた。
ただ、身代わり人質として范蠡が自から呉国へ乗り込むんですわ、大した度胸や。
句践釈放のお礼に、句践の西施夫人を妾として差し出すのも条件やった。

 

健康のありがたみにしみじみしていた夫差は「よきかな」と承諾しますねん。

 

ここからが西施の大活躍、持ち前の聡明さであっという間に夫差を虜に。
戦略家范蠡は呉国の人質、怖いもんなしや。天下快晴

西施「王様 御殿を作って」
夫差「愛いやっちゃ、よしよし」
西施「殿さまはちっぽけな呉国だけでは収まりませぬ」
夫差「そなたは見る目がある、楚を攻めよう」
西施「それだけでは」
夫差「よっしゃ、晋も攻め取るわい」
西施「牛車の振動は美容によろしく御座いませんの」
夫差「誰かおらぬか!道を平らに舗装せよ」
西施「近頃差し込みが」
夫差「后の立ち寄る所、快適な透明ガラス張り休息所作れ」
西施「帝様、上海ガニより金澤勢子ガニが好みなのご一緒に・・・」
夫差「船百艘で邪馬台国へゆけ!!」(まず史実にあらず)

といった具合に、莫大な浪費をさせることとなったんや

 

 

政治顧問伍子胥は自害させられるは、国庫は見る間にねずみ走る運動場ひろがる。

 

一方、三年の囚われの身で呉王のしょん便まで飲んで苦労した勾践。越にたどり着いて身についた粗衣粗食を続け、鍬を振り食事の熊の胆を舐めて肝臓を鍛え

「今に見ておれ!!!!」とリベンジを日々新たにした。嘗胆(ショウタン)で先の臥薪と合わさって臥薪嘗胆となるんや。

なんとなぁ、2500年後にマルコの生活となるんでっさ。

 

范蠡は西施と連絡をひそかに取り交わし、時の至るのを待ち続ける。
越王句践は若いから性急でありまんわな


句「そろそろ、攻め時ではないか」
蠡「まだまだ、天の好機ではございませぬ」

 

范蠡は魯の国の孔子の高弟子貢と旧知の間柄、
呉王に働きかけて斉国を撃たせる策を練って呉の国力を弱めさせる手立てを苦労してやりますねん。
やっぱり若い時の遊学はよろしおますなぁ

 

范蠡ハン自腹きって、危ない橋をわたる多角的戦略を次々実行し苦労の連続・・・・
それに范家の蔵、空っぽや。

賄賂でつこうたし、きれいな若娘ぜぇーんぶ呉へやってしもた。


范蠡ハンゆうとった。
    「はた目には 何の苦もなき 水鳥の
                 足のせわしき 吾思いかな」
    「なんでわし、こんなことせにゃあかん???」

 

 

◆呉国滅亡、句践大得意 范蠡去る
カップラーメン三分、范蠡十年三度で待てる度量

 

句践「苦い肝、舐めるのは飽きてしもた」
范蠡「まだ、呉国の豊かさは越を凌駕しとります」
句践「そうか、舐め続けなしょうないか」

   何度繰り返された後か知らんけど、
ある時、呉王夫差は軍をほとんど率いて北の会盟に出かけた。国許は太子・友がわずかの兵とともに守ってると忍者の確報を得た范蠡ハン


范蠡は 「天の時来たり」 と句践に笑顔で言いましてん。

小躍り句践は大軍で一気に呉を襲い、太子を殺して呉を占領した。夫差はえらいこっちゃと引き返してきた。
越王「まだ呉の全土を占領するには越の力不足」と一旦和睦する引け際見事でんなぁ。

 

 

後、西施の勧めで夫差は無理して北伐出兵し見る間に国力消耗ですわ。
その機を見計らって越は呉に決戦を挑み、遂に夫差を姑蘇山に追い詰め、夫差は自らお命を絶ちましてん-------------------------

 

 

悲願達成、極楽有頂天の勾践を見て、范蠡は家族たちと気づかれぬように越を抜け出たんですわ。
これごっつう冒険、一旦王命に逆ろうたらね、えらい目にあわされるんや。

 

范蠡は友人文種への手紙にしたためる

「わたしゃ『飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗烹らる』(飛ぶ鳥がおらんようになったら良い弓は仕舞われ、狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われるもんや)と聞いとる。
越王殿の容貌は首が長うて口がとがとります。この人相苦難を共にできても、平和時はともにしたら災い起きまっせ。おぬし越から逃げ出されんことを」と。

 

文種は病気を理由に蟄居するも、猜疑膨らませた句践から剣を賜い(自殺を命ずる意)、自殺させられますねん。
国を思うて苦労した家臣に・・なんとむごいことをと思いはりませんか!!

 

◆変幻自在の転身
かって、范蠡から天子句践への諫言 

「兵は凶器、戦は逆徳、争は事の末と聞いております。
 密かに逆徳をはかり、好んで凶器を用い、身を事の末に試みるのは、天子の禁じ給うところで、先に犯したほうが不利」どした。 

苦しい境遇の宮仕えを捨て去った范蠡は、この箴言を自らも守って細心注意で新天地を目指しましたなぁ

 

蠡は平和な暮らしを求めて、斉の国薄姑(ハクコ)という村にやっとたどり着く。
気分一新、鴟夷子皮(シイシヒ)と名乗って農商に精出しますねん。
戦略パートナーだった西施が罪人を入れる皮袋=鴟夷で沈められたと聞くし、敵の伍子胥が悲惨な死を遂げてやはり鴟夷で沈められたんで弔いの意味もあったんやろな。

農作物は豊富に実り生糸をと桑も栽培する。浜辺で塩を作り「敵に塩」ではないが、戦争地帯でばかばか売る。。
人びとは喜び、儲かるはで范蠡ご機嫌。「これわしのユートピア

 

 

成功はもろ刃の剣、斉王である平公から政治顧問を請われまたまた宮仕え。
産業興隆、軍事防衛を終えてほっと一息の范蠡ハン。
「まずいのう、あまり評判が高くなるのは災いを招く」

 

平公にお目通りを願い「吾六十四、年齢には勝てずゴッホ・・・」と高位を若きに譲り、財産を友知人に分け与え
また家族とともに行方をくらましますんですわいな。
若いころの旅をなぞっとんですなぁ。

 

そうして交易が盛んな陶という土地に移り住みました。彼は「陶朱公」と名を変えて心機一転。

農商業に再チャレンジ、おやおやまたもや巨万の富を築きました。
范蠡が近くを調べると鉱脈があり、硫化水銀が採れる。ピンときた范蠡はそれを原料に朱や印朱肉を製造販売し、専門家を動員してたりもして、硝石と硫黄などから火薬を作ったりして財がますます増え、またも范蠡は長者になってしまった。そうこうしているうちに、陶朱公と皆から讃えられることになったんやなぁ

 

---これはおまけの話やけど--------

◆西施と范蠡
范家にはいろんな人材を抱えていた。
歴史として有名な四大美女の一人、西施はもともと洗濯女。川で洗濯していたら、魚が美しさで気絶、浮いてきたとか(真っ白なウソ)
だいぶ年下の西施を范蠡は娘時代から大事に育み、傾国の美女の役割を持たせるんや。
本来聡明な西施は、あの手この手を尽くして連絡を取り合い、夫差を骨抜きにした。

他の三大美女は我欲のわがまま娘、西施は使命全うのお人。

 

ゆくすえは?

呉王夫差は西施の恋が偽りである事を知りながら、その美しさ故に西施を愛していった。また、西施も、呉王の優しさに触れ、いつしか本当に王を愛するようになっていくのだった」とは宝塚歌劇団雪組(西施役紺野まひる )のストーリーだが、マルコの推測は違いまっせ。

 

親とも兄とも慕う范蠡との絆があるからこそ使命全うできるんや。
呉の国では、敗北滅亡の元凶として憎まれて、一説には皮袋に放り込まれ、長江に流されたとも。
別の説では范蠡に無事に助けられ保護されたんやと!
そやけど、居場所がおまへん。
勾践の新しい正室後宮の女たちの猛烈な嫉妬にさらされ、殺し屋が夜な夜なきたとか。

 

施「蠡さま、呉では死袋に入れられそうになり、越では句践王様は見向きも護ってもくれずで御座います」
蠡「そうか」深いため息をつき「それはわしの不徳、吾ら家族とともに同行を、それがお前の人生への償いじゃ」と手を取り合った。

願わくばのマルコの想像でしかおまへん

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            苦労かけた



 

◆団子三兄弟、范蠡の悲しみ 以下は余談ですが関心ある人どうぞ

范蠡の次男が楚の国で人を殺し、捕らえられる事件が起きました。范蠡は「人を殺せば死罪は当然だが『千金の子は市に死せず(富豪の子は死刑になって市中にさらされることはない)』とのことわざもある」と、末っ子に大金を持たせて救出に向かわせようとします。
 すると長男が「自分でなくて末弟を行かせるのでは長男の面目が立ちません」とゴネ出します。自分を行かせてくれないなら自殺するとまで言い、母親も「末子が次男を救えるとは限らないのに、ここで長男に死なれてはたまりません」と訴えました。
 范蠡はやむを得ず長男を行かせることにし、

まず荘生(そうせい)という人物を訪ねて大金と自分の書簡を渡し、全てを任せるように言い含めました。
 長男は最初だけ父に言われた通り動きます。荘生は書簡を読み終えると、長男に「すぐ帰りなさい。もし弟が無事に釈放されても、その理由を詮索してはいけないよ」と命じます。長男が持ち込んだ金は、范蠡からの信頼の証しと考え、次男を救った後に返すつもりで預かりました。

 貧しい暮らしぶりながらだれからも尊敬されていた荘生は、タイミングをみて楚王に謁見すると「星の動きがよくありません。不吉の兆候です」と語りかけ、君主の徳を世に示す必要を説き、暗に罪人たちの恩赦を求めました。これに楚王も応じようとします。
 范蠡の長男は荘生を信用せず、楚に残って有力者への工作を続けていました。そして楚王に恩赦の動きがあることを知ると、荘生に返金を求めたのです。恩赦があれば、荘生に頼らずとも弟は釈放されると思ったからでした。「なぜ帰国していないのか」と驚いた荘生が「金なら部屋にあるから持って帰れ」と口にすると、長男は喜んで持ち去りました。

 ここで荘生は厳しさをみせます。再び楚王に謁見すると「恩赦は楚の人民のためではなく、楚の高官たちが賄賂の見返りに朱公(范蠡)の子を助けるためだと皆が噂しております」と伝えました。楚王は怒り、范蠡の次男を処刑した翌日に恩赦を実施したのです。
 長男が弟の亡きがらを抱いて帰ってくると、だれもが悲しむ中で范蠡だけがさびしく笑って言いました。
  吾(われ)固(もと)より其(そ)の弟を殺さんことを知れるなり。彼は其の弟を愛せざるに非(あら)ず。顧(おも)ふに忍ぶこと能はざる所のもの有るなり。
 私ははじめから長男が弟を殺してしまうだろうと思っていた。彼が弟を愛していなかったというのではない。(荘生に渡した大金を)思い切って諦めることができない性格だからだ――」

     

マルコの推測やけど、范蠡ハンはもともと商売人か庶民に埋もれてみんなとアホな冗談言って過ごしたかったんやろうなぁ

 

++マルコの学び++++++++++++++++++++++++
①世の中の仕組みと織りなす人の欲望を諦める
・王たるものをよく見て対処している
対呉国、そして人の欲望に対する深い慧眼。
度量の大小、名誉、地位、財貨への欲、自らをどこまで客観視できるかだ。自分が欲張りを認識できる人はほとんどいない。それが失敗へのスイッチ。
領土の奪い合いとはいえ、私怨がほとんどで狭量というしかない。

・讒言や妄想への対処
事実と推測想像は相容れない。讒言は現在でも日常茶飯事。それが本当のように広まって悲劇と禍根を残す。それを身に染みて、そういった悲劇の渦に巻き込まれぬように逃れるのが術だ。

・思い切る
人は権力や地位・富・財・技術などを持つと自惚れ・失うことの恐怖・さらなる貪欲・保身・猜疑・・などのあわれというべき感情の虜となるものだ。「句践は困難に苦しむときは是としても、勝者になった時には共にする相手ではない」と見抜く慧眼は大したもの。
災いのもとから去るにあたって、ためらいもなく“人が手放すことのできぬもの”をぱさぱさ捨て去りゆく。。
范蠡は決して人とは競うつもりがない。請われて受け入れても、地位や権力を手に入れることには無頓着だ。価値の中に入れていない。ほとんどの凡人は昇進すると、もっともっとと分をわきまえず欲を出す。それは身の滅びの一つの根源である。

 

②ゆるがぬ大黒柱を持つ
王様の臥薪嘗胆はどんなレベルか? 裕福でわがままを通せる王。
底辺を這う私どもには想像つかぬ贅沢だったろう。
そりゃ、ぜいたく税、有名税、臥薪嘗胆税ぐらい払わにゃいかん

そもそも歴代の王様は『自分の名誉と領土拡大の欲望』を適当に絹を着せているだけ。
悲惨な戦さで、無数の民が生産したものや命を奪い、名もなき戦士たちを踏み台にして得意がり後世に名を遺す。
例えば“アレキサンダー大王”という名前が付こうと、その本質は“殺人大王”そのものである。彼らが、苦しむ人々のために“粥を分かち合った”ことがあっただろうか。

范蠡もムーランもその温心を持っていた。私欲を超えて分かち与える慈心を大黒柱に持っていた。

 

 

③いかなる事態になっても変幻自在
物語ですぐ、分かっていただける。

物々交換の当時、春秋時代の末期は中国での本格的な貨幣経済が始まった。いち早く貨幣経済の本質を理解した計然、その指導を受けた范蠡はその最先端を実地に活用した。
范蠡は中国南部が米など産地だったのでその備蓄を図り、さらに貨幣経済での商品流通を円滑にして、国力の充実を図った。越はその後進性ゆえに他国の学者達を何のしがらみもなく活用できた:という。

范蠡は今に通じる柔軟な経済実務家として優れた手腕もつ。
 国際的なヘッジファンドから引く手あまたってところかなぁ

 

それは現代に通じる。旧制度の集中型金融仕組みから分散型金融De-fiへの過渡期の現在、
富というものの本質をつかんで国をきっと豊かにできるだろう。
例えば暗号資産がレンディングでは貸すだけで数%の金利がつく→ステーキングで10~100%つく、更にDEX(分散型取引所)でイールドファーミング(流動性提供)すると、持っていいるだけで10~1000%の金利がつくという昔の考えでは思いも及ばぬ。范蠡ならすんなり活用できるだろう。


マルコにはトンとわからない。

 

縄文の平和と滅亡調査-32 <英勇4-木蘭>

 

 

中国の歌や伝説の中で語り継がれる有名な女将軍である。
老病の父に戦さの招集がかかり、おてんば娘の木蘭(ムーラン)はこっそり男装して抜け出し、替わって従軍する。
北方の異民族を相手に各地を転戦し、勝利に導いて将軍となる物語。

 

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            ムーラン (木蘭) 廟 

    ∞

☆中国の民に伝わる木蘭辭☆                   Marco意訳

喞喞復喞喞  聞こえる嗚咽とすすり泣き
木蘭當戸織  戸口の織り機に娘ムーラン
不聞機杼聲  トントンカラリ織りの音 その音もなく
唯聞女歎息  ただ嘆く女のため息ばかり
問女何所思  父女に問う、何を思うや?
問女何所憶  女に問う、何か想い出すのか?
女亦無所思  娘は口重く、いえ何も・・・
女亦無所憶  娘は口重く、何を想いだしましょうや

昨夜見軍帖  昨夜、召集令状を見てしまったの
可汗大點兵  国王は多くの兵を求め
軍書十二巻  徴兵書は十二巻にも及ぶ
巻巻有爺名  その全てに老父の名見たわ
阿爺無大兒  父に替わり出征する息子なく
木蘭無長兄  ムーランに兄はいない

願爲市鞍馬  願わくば・・・私が騎馬に乗り
從此替爺征  老病父に替わり出征するわ
東市買駿馬  東の市で駿馬を買った
西市買革薦  西の市で鞍を買った
南市買轡頭  南の市でくつわを買った
北市買長鞭  北の市で長鞭も用意した

旦辭爺孃去  朝早くにそっと父姉に別れを告げる
暮宿黄河邊  暮には黄河の野原で野宿した
不聞爺孃喚女聲  父姉の娘を探す声は届かず
但聞黄河流水鳴濺濺  ただ黄河の水せんせんと泣き流る
且辭黄河去  やがて黄河を去りて先急ぐ
暮至黒山頭  暮に黒山の頂きに至る
不聞爺孃喚女聲  父姉の娘を探す声いよいよ届かず
但聞燕山胡騎鳴啾啾  燕山より匈奴の騎のいななきかぼそく聞ゆ

萬里赴戎機  遙か遠く、戦場に赴きたり
關山度苦飛  関所の山を苦労し越える
朔氣傳金木斥  北方の冷気に銅鑼ドラと拍子木が寒々響き
寒光照鐵衣  冬の月光よろいを照らし戦士闘いに明け暮れる

將軍百戰死  将軍は度重なる激戦で骸ムクロとなり果て
壯士十年歸  英勇ムーラン将軍となるや、軍兵鼓舞して幾多の戦火を勝取る
       十年して凱旋す

歸來見天子  長路都に帰り至、天子にまみゆ
天子坐明堂  天子は宮殿で兵士達を迎え
策勳十二轉  天子はムーランを讃え十二階特進の勲を与え
賞賜百千彊  百千もの褒美を賜る

可汗問所欲  天子問う「願いはないか」
木蘭不用尚書郎  ムーラン「高位は欲しくはございませぬ」
願馳千里足  「ただただ、千里の先
送兒還故郷  ふるさとへ帰らせてくださいませ」と

爺孃聞女來  父達はムーランが帰郷を聞き
出郭相扶將  手を取り合って郭の外まで出迎え
阿姉聞妹來  姉は妹が帰ることを聞き
當戸理紅粧  戸口で化粧を整う
小弟聞姉來  小さき弟は姉の帰郷聞きおよび
磨刀霍霍向猪羊  刀を手に歓声を上げ豚・羊小屋へ向かう

開我東閣門  ムーランは吾村の東門から入り
坐我西閣牀  吾家の西部屋の藁寝台に座り
脱我戰時袍  戦場での吾武具を脱ぎ
著我舊時裳  昔着ていた娘服を懐かしくまとう
當窓理雲鬢  窓辺で吾髪を櫛とぎ
對鏡帖花黄  鏡に向かっては化粧する

出門看火伴  門に出て戦友たちと顔を合わせるに
火伴皆驚忙  戦友は皆仰天し驚く
同行十二年  十二年間戦さ場で辛苦した戦友が
不知木欄是女郎  まさかムーランが女将だったとは

雄兎脚撲朔  戦は死と隣り合わせ、雄の兎は足がガクガクで前に進まず
雌兎眼迷離  雌の兎は目がチラチラと虚ろで定まりもせぬ
兩兎傍地走  どんな兎といえど地面に這いつくばるよう走るのだから
安能辨我是雄雌  どうして雄だ雌だと見分ける必要があろうや


◎木蘭詩
南北朝時代北魏(386~534)の民詩『木蘭辞』より、日本では大和時代
『楽府詩集』に木蘭詩2首が収められている。

 

    

 

 

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ムーラン(花木蘭)、生まれは412年(406年説あり)、502年に90歳で逝く。
父は花弧、姉は花木莲、弟は花雄。

 

ムーランのいるファ(花)家も男子を一人出征させなければならない。ファ家には高齢でしかも脚を患っている父弧しかいない。出征しようとする父を見るに堪えないムーランは父に替わり戦地へ赴く。

緑なす長髪をバッサリと切り、男装をして従軍するのだった。


男のふりをして北方民族軍柔然と奮戦するも、失敗したり仲間から意地悪され反撃したり、軍隊の荒くれと暮らす。
日々の努力により腕を磨いたすえ、やがて戦友たちから一目置かれてゆく。故郷の仲間も次々と戦死して、彼らの血に染まる兵票の木札を洗う悲嘆に耐えきれず、涙の日々を送る。

 

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そんな過酷な日々にムーランは司令官(ウェンタイ)への淡い恋心が芽生え一条の光となる。
しかし戦況は激化しムーランも手傷を負った所を助けられる。しかし戦功で昇進し、将軍の後任となる


大決戦で司令官は戦死絶望するも祖国のためにと戦友とともに奮戦を続ける。
ところが、傷を負っただけで、ムーランの自立を促すため司令官は目立たぬところで療養していたのだ。

 

他の友軍との戦略で、指令通りの戦闘を行うも友軍は逃げて死地に陥ってしまう。
援軍も食べ物も届かぬ中、柔然の大軍隊と対峙し全滅を覚悟しつつ突撃する悲愴なムーラン。

 

兵士たちを救うため犠牲になる決心をしたムーランをかばったのが司令官ウェンタイ。
証明の玉を見せ天子の第六皇子を名乗り、人質として自軍の身代わりとなる。

 

柔然の大軍隊は北魏の皇子を人質に意気揚々と引き上げて勝利の宴を開く。

ムーランは単独騎馬で乗り付け柔然女に成りすまして、柔然の后と密約を交わし柔然王をしとめる。

柔然の大軍隊は王がいなくなったので北方へと引き上げて戦乱は終わりを告げる。

 

柔然王を討ち取った功績で勝利を収めたムーランは、事の顛末を知った皇帝から、裏切った友軍を罰するお達しとともに、ムーランに謁見を許す。秘宝を賜り、国を救った英雄として全国民から称えられる。

天子問う「願いはないか」
ムーラン「高位は欲しくはございませぬ」
  「ただただ、千里の先
   ふるさとへ帰らせてくださいませ」と

 

彼女へ想いを寄せる司令官の皇子がはるばる訪ねてくる
皇子「ともに逃げて二人で暮らそうぞ」
ムーラン「(それは吾願い)・・・あなたは人民に平和をもたらすお役目が」と身を引き
貧しい廓に帰るムーランを見送る皇子。

 

 

北魏はこのように北方の遊牧民柔然じゅうぜんの勢力を弱めたので、西域の諸国や東北の高句麗朝貢した。
この時期、江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明(365年-427年)や王羲之などが活躍した。

マルコの父は陶淵明の本を書くことのため生まれて安らかに召された。

 

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+++マルコの学び+++

・身を犠牲にして父や人民のためになろうとする潔さに感服する。


・何が一番大切かを確と心の中心に置き、襲い来る感情や目先の欲に惑わされない高潔さはいったいどこから来るのだろう。生来かもしれないが、何か修行のたまものだろう。


・勇気とあたたかな慈愛を秘めた正に英勇でありその後をたどりたい。
 吾々の仲間はこうした人材を求める。

 

 

縄文の平和と滅亡調査-31 <英勇3-北条時宗-後編>  長文

 

◆ネバーギブアップ同士の戦い

 

1275年10月に鎌倉幕府は120名の御家人に対し文永の役の恩賞を与えた。恩賞がなければ命をかけて戦わぬ武士だからで、次の戦いの準備でもあったが、元から奪えたものはなかった。


その恩賞は狭い土地,小さな屋敷などで今までに比べ見劣りするものだった、。多くの御家人にはろくな恩賞も与えられなかったが、次の侵略に備えることが急務だった。時宗にとって大義があっても、苦しい状況での準備であった。

 

 

片や元帝国、フビライは「わしはネバーギブアップ!!」と叫んだかどうかわからぬが、
文永の役の翌年,4月15日杜世忠を正使に元の使者として派遣した。
杜ら五名は戦いのあった博多をさけて山口県長門室津に上陸、天皇や将軍に面会し国書を渡そうとした。文永の役は「蒙古の恐ろしさを知らせる」のが目的だったが、「今度は目が飛び出る数の軍隊を送るぞぃ・・早う隷属せよ」という恐喝の使者だった。
そのため、杜は死を覚悟していたようだ。


案の定,鎌倉に送られた一行は龍ノ口で全員処刑され,見せしめとして首はさらされた。

34歳の杜世忠の辞世、「国を出るときに妻や子が尋ねた---いつになったら帰ってこられますか? 出世など求めず無事で帰って欲しいと・・・」

 

若き執権北条時宗南宋の師から「宋が侵略され滅んだのは蒙古を軽く見てだらだらと交渉していたからだ」と伝え知っていたし、仏光禅師からは「莫煩悩」(まくぼんのう:あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおせ)と迷いを払拭していたので、徹底的に戦う決意を示したのである。
鎌倉幕府は第2の侵略にそなえて九州全土と安芸(広島県)の御家人に対し異国征伐の準備を命じ,征伐に加われない御家人には博多に集まり防塁を築くことを命じた。
異国征伐は御家人への褒美として、高麗や中国へ打って出て領土や富をとることだ。

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               時宗

防塁は総長20キロメートル、2メートルの高さを誇っており、元軍の攻撃を防ぐに効果を発揮した。

 

ネバーギブアップのフビライは立て続けに1279年6月に周福を正使として派遣したが、なんと幕府は一行を博多で全員斬りすててしまった。杜が斬首された連絡がまだ届いておらず、周には気の毒の極みである。

 

使者が全員殺された報を受けフビライは怒り心頭、血圧が200を越した。
しかし心を鎮め、まずは1279年に南宋を征服し終えて
再び日本への侵攻し確実な征服を計画する。

 


◆世界史上最大規模の艦隊が押し寄せた弘安の役開始
1281年に元の四万人の兵士が軍船千艘ほどに乗り高麗から出航する(東路軍)。文永の役より一万人増員。
さらにフビライは征服を確実にするために隷属させた南宋から10万以上の超大軍を中国上海の近くの寧波から軍船三千艘以上に乗せ出撃させる(江南軍)。
東路軍は文永の役と同じく対馬壱岐から博多という航路をとり、江南軍は壱岐で合流するという作戦だった。
 
5月21日に東路軍の一部が対馬に上陸,6月6日に博多の志賀島に上陸した。主力の江南軍はまだ合流してはいない。
 
東路軍は上陸したが前回とうって変わって二か月以上苦戦を強いられることになる。
前にはなかった防塁に阻まれ、武士御家人たちに悩まされ続ける。そして関東からの御家人も到着しており士気が高まっていた。この時の日本軍は6万5千人程と言われる。

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鎌倉武士は夜になると敵船に乗りこんで火をつけ,敵の首を取るなどゲリラ戦を行い続け、竹崎季長もすね当てをかぶと代わりにして小舟で元の船に乗り移り攻め込んだと記録されている。

 

 

主力の江南軍は6月27日に佐賀の鷹島に集結する。鷹島での戦いも熾烈を極めた。

 

 

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伊万里湾に浮かぶこののどかな小島には荒波を避ける内海があった。元側は事前に台風が来ると予想して避難目的で内海に四千艘もの軍船がひしめいた。
そこに台風軍が北九州飛来する。大自然軍は、港をうめつくしていた四千の船をほぼ全滅状態にしたのだった。

 

元軍は大損害を被ったが全滅したわけではない。幾万もの江南軍の兵は健在で、鷹島に上陸して鎌倉武士と壮絶な陸上戦を繰り広げつづけた。

 

しかし元軍は態勢を立て直すことをあきらめ、范文虎将軍らは残った船で宋へ引き上げてしまう。四千の軍船のうち無事に帰り着いたのは二百隻だといわれている。

 

鷹島には多数の元兵が置き去りにされ、逃げ場なく悲惨そのものであった。
その死に物狂いの元兵との戦闘は7月7日まで続き,降参して捕虜となった無数の兵士はそれぞれの御家人の生け捕り分を記録された後,ことごとく首をはねられてしまたのである。今でも元軍兵士の首を埋めたと言われる,蒙古塚として残っている。

 

鷹島には江南軍の残存兵5000人を陸上戦で全滅させたとの伝承があるが、中国の史書「元史」には元兵十余万が取り残され日本武士が襲い、ことごとく死んだとある。高麗史には「大風にあい江南軍皆溺死す。屍、潮汐にしたがって浦に入り、浦これがためにふさがり,踏み行くを得たり」と記す。浦に埋め尽くす死体で歩き渡ることができたとという。士官や将官などの上級軍人の死亡率は七割以上、一般兵士の死亡率は八割以上という惨憺たる敗北だと伝える。

 

 

しかし日本国にとっては準備万端、奮戦をもとに見事に勝利した戦いであった。


恐ろしいフビライの命令で戦わざるを得なかった高麗兵と宋の兵達は浮かばれない敗北であった。その元兵達を弔って浮かばせたのは時宗であった。

 

ネバーギブアップの二人はその後・・・
フビライ・ハーンは3回目の日本侵攻、時宗は2回目の高麗侵攻を共に計画したが、資金難などのために両者共に断念せざるを得なかったという。

 

 

病気を患って自らの死期を悟った時宗は、1284年4月4日出家、子に執権を譲って他界した。    父の道を歩んだのである。

 

    ∞
時宗には偉大な仏教精神が宿っていて、真摯な禅の修行者であった。 禅が鎌倉及び京都に固く樹立されるようになり、武人階級の間に道徳的精神的影響を及ぼし始めた事は実に彼の奨励による。 日本と中国の禅僧間に端を発した不断の交渉は、両者のともに感心する精神的事項のみに限らなかった。 なぜかというに書物・絵画・陶芸・織物・その他多くの美術品が中国からもたらされたり、また大工・石工・建築家・料理人などがその主人達と共に日本に渡ってきたからである。 かようにして後に室町時代に発達した中国との貿易はその端をすでに鎌倉時代に発したのである。
 中略
当時の日本の天才達は僧侶か武人になった。 この両者の精神的協力は一般に「武士道」として知られているものの創造に貢献せざるを得なかった。
                        <禅と日本文化>
    ∞

 

 

北条時宗は決して英雄扱いされない。
敵と一騎打ちするようなパーフォーマンスがないからであろう。


しかし武人として葉隠れ的に、角笛を吹いて目立たつことなく、人民を守る気概を持ち、己のすべての時間を費やしその父よりも短い三十二歳の人生を閉じたのである。

 

まことの英勇とは彼のことであり、武のみならず先七百年に及ぶ豊かで奥深い文化の種をまき終えて去っていった。

 


+++マルコの学び++++++++++++++++

・失意泰然得意平然
仏光国師からは「莫煩悩」(あれこれ考えずに正しいことをやりとおせ)と示唆され、なんとそれを実行できた。断じて行わば、鬼神これを避くとはこのことである。
仏光国師自身、祖国の南宋で乱入した元兵を去らせたお人であった。

 

・マルコの名づけ元・マルコポーロの記述「ジパングは金の島」でフビライは大いに張り切って征服を試みた。 当時いたるところで、例えば北海道でも簡単に金塊が採取できたそうで、英勇シャクシャインの悲劇のもとでもある。
それを狙う権力者は必ず出てくる。今も昔も同じ人の性であると肝に銘じる。

 

・獅子奮迅の戦と慈悲の広がり
 彼は仏光国師のために一寺を建立した。それはまた、元寇で亡くなった日中両国軍民の霊を弔うためでもあった。  自国だけではなく国籍を問わない慈悲は神に通じるものがある。時宗の妻も禅に通じて、彼の死後尼となり円覚寺の真向かいに東慶寺を建て以後駆け込み寺として人々を救った。

 

彼は七百年の歴史の種をまいた。

 

 

縄文の平和と滅亡調査-30 <英勇3-北条時宗-前編>  長文


---スコットランドでは英勇ウオレスが活躍していた七百五十年ほど前
正に時を同じくして、日本国では北条時宗をはじめとして武士が元・世界帝国相手に戦った。

 


    ∞
北条時宗(1251年-1284年)は執権時頼のひとりっ子であり、1268年の父の跡を継いだ時はわずか十八歳であった。 彼は日本が生み出した最大の人物の一人となった。 彼がいなかったなら、わが国の歴史は現在のごとくではなかったかも知れぬ。1268年から1284年までの執政の間、数年にわたって続いた蒙古人の侵入(元寇)を最も見事に粉砕したのは彼であった。
 時宗は日本国家の上に降りかかろうとした大災害を除くため天から遣わされた使者であったかのごとくに思われる。 彼は日本歴史における最大の事件の終末をつけるとともに逝ったのである。 彼の短い生涯は単純であった。

その全部はこの事件に捧げられた。彼はその時、 全国民の唯一の頼みであった。彼の不屈不撓の精神は全国民を支配した。彼の全存在は一致団結した軍隊の形となって、 西海の 狂瀾怒涛対する絶壁の如く突っ立った---      

                                                                                          <禅と日本文化>
    ∞

 

元帝国の野望
世界帝国だった元はこの頃中国の王朝南宋と対立していた。元の皇帝フビライ・ハンはこの南宋と日本が親交のあったと聞き、南宋を孤立させるため日本に服属するようにとの国書を携え使者を派遣させた。
時の天皇を補佐する執権は北条時宗。二十歳に満たぬ執権は国書を見てどう感じたのであろうか。

 

 

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                                        帝国皇帝 フビライ

=====大蒙古国・国書
「天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る。昔から国境が接している隣国同士は,たとえ小国であっても貿易や人の行きなど,互いに仲良くすることに努めてきた。まして,大蒙古皇帝は天からの命によって大領土を支配してきたものであり,はるか遠方の国々も,代々の皇帝を恐れうやまって家来になっている。

私が皇帝になってからも,高麗が蒙古に降伏して家来の国となり,私と高麗王は父子の関係のようになり,喜ばしいことである。高麗は私の東の領土である。しかし,日本は昔から高麗と仲良くし中国とも貿易していたにもかかわらず,一通の手紙を大蒙古皇帝に出すでもなく、国交をもとうとしないのはどういうわけか?
日本が我々のことを知らないとすると困ったことなので,特に使いを送りこの国書を通じて私の気持ちを伝えよう。

これから日本と大蒙古国とは,国と国の交わりをして仲良くしていこうではないか。我々は全ての国を一つの家と考えている,日本も我々を父と思うことである。このことが分からないと軍を送ることになるが,それは我々の好むところではない。日本国王はこの気持ちを良く良く考えて返事をしてほしい。不宣  至元三年八月(1266年・文永三年)
=====

 

1268年(文永五年)国書は外国との玄関九州の太宰府から幕府に、そして朝廷に届けられた。朝廷では連日会議をかさねた上で返書を出すことになったが、最終的には幕府の意向によって「返事をしない」つまり無視をするという結論にいたった。

 

元の使者は7ヶ月間待った上、明確な意思表示なしの返事を持って帰る。日本は返事をしないこと=国交を結ばないという断固とした返答であるとしたが、外国相手にその意思は通じなかった。元の使者は高麗人で困ったにちがいない。

 

隷属表明がないため、元は何度か高麗に命じて使者を日本に派遣させる。しかし高麗にも事情がある。日本と戦争になると兵や食糧の負担が大きく、天候不順などあれこれ理由をつけ途中で帰ったり,日本に蒙古との通商を勧めたりした。


フビライはすでに三度も使者を送っているにもかかわらず返事をよこさないため進軍を考えた。しかし,もう一度まってやろうと12年、元の使者趙良弼を立て、百人の部下を伴わせて日本によこした。高麗には任せられんと、フビライはその交渉に期待した。

 

もちろん元は戦争の準備は着々と進めていた。兵を高麗に送り,高麗はそのために土地や人や農耕のための牛を提供したので、庶民は草や木を食べて飢えをしのいだとつたわる。

 

 

太宰府に着いた趙良弼たちは「天皇や将軍に会わせないならこの首を取れ」と迫ったが,幕府は今回もノーコメント。1271年趙良弼は四ヶ月滞在後高麗に戻り,再び日本にやってきて一年間日本に滞在する。この間,趙良弼は日本のことをきめ細かく調べてフビライに報告した。この報告を受けたフビライは「大変よくできておる」とほめて余裕を見せているので、日本との脅し交渉だけではなく戦争の事前内偵だったろう。

 

 

時宗は二十一歳で国難を一人で背負う立場にあった。若き時宗の心うちはいかばかりであったろうか。
経験少なく執務に慣れぬ上、世界帝国からの恫喝に怯えつつ、無視という敵対関係を作った以上それに耐えうる体制を急がねばならないからだ。

 


◆かってない大国難に若き時宗が吼える
幸いなことに、父の背を見て北条時宗は育った。
北条時頼は武士としての心構えを、禅から学んでいた。中国南宋から高名な禅師を、京都からも禅匠を招いたのだった。そして二十一年間鍛錬修行し奥義を得た。幕府の御家人はこぞって主君に見習った。時頼は三十七歳にて死期を悟り、辞世の句をしたためて心安らかに逝った。
その姿は時宗の生きざまへと花開き結実する。

誠に驚くべきことは、この時期に中国南宋から来た諸禅師の許で、禅を学ぶ時間と精力と向上心を持ったことである。彼は仏光国師のために鎌倉の円覚寺を開山した。

 

    ∞
時宗はある時仏光国師に尋ねた。

時宗「我々の生涯の大敵は、臆病ということです。 どうしたらこれを避けることができましょうか」
仏光「その病のよってくるところを断ち切れ」
時宗「その病はどこから来るか」
仏光「時宗自身から来る」
時宗「臆病は、諸病のうちで私の最も憎むところです。 どうして私自身からそれが出てくるでしょうか」
仏光「何時の抱ける時宗という自己を投げ捨てたとき、どんな感じがするか。それを果たし得た時、余は再び会おう」
時宗「いかにしたらそれができますか」
仏光「一切の汝の妄念思慮を断ち切れ」
時宗「いかにしたら、わが諸々の思念と意識を断ち切れますか」
仏光「座禅を組むのだ。 そして時宗自身に属すると思う一切の思念をの源に徹底せよ」
時宗「私には面倒を見なければならぬ俗事がたくさんあります。瞑想する暇がなかなか見つかりません」
仏光「いかなる俗事に携わろうとも、それを汝の内省する機会として取り上げよ。いつかは汝の内なる時宗の誰なるかを悟るであろう」
                                                                               <禅と日本文化>
    ∞

 

時宗は多忙を極める執権の時間を縫って修行座禅にとりくむ。
そしてしびれを切らした元軍が万単位で押し寄せて来るのだった。


それは二度にわたり
文永11年1274年    10月    文永の役時宗24歳)
弘安4年    1281年 5月    弘安の役時宗31歳)
弘安7年    1284年    4月4日    死没(享年34、満32歳没)


    ∞
筑紫の海を渡って蒙古襲来の確報を受けた時、彼は仏光国師の前に現れて言った。
時宗「 生涯の一大事がとうとうやってまいりました」
仏光がたずねた「いかにしてそれに向かわれる所存か」

時宗は威を張って「喝!」と叫んだ。
あたかも目前に群がり来る数万の敵を叱咤し去ったたかのように。

 仏光は喜んでいった「誠に獅子児なり、能く獅子吼す」
これこそ時宗の勇気でありそれにより彼は大陸から渡ってきた圧倒的な敵軍に立ち向かって見事にこれを撃退したのである。            <禅と日本文化>
    ∞

 


◆高麗から元軍が押し寄せ元軍優勢:文永の役
1274年1月堪忍袋ブチ切れた皇帝フビライは日本を征服するため、従属させた高麗に日本征伐のため船の建造を命じた。
3万5千人の人員と莫大な木材を使い、わずか10ヶ月で900隻の大艦隊を建造させた。

1274年10月3日に三万の元・高麗軍は高麗の合浦を発ち、10月5日に対馬,14日に壱岐をおそい皆殺しとした。

 

守護代宗は騎馬兵八十名を率いて、上陸した千名の元兵と奮戦した。当時の武士達は鍛え抜かれたとはいえ戦死。元軍来襲の急報は鎌倉に二週間後に届いた。

 

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対馬壱岐の人々のほとんどは殺され,わずかに生き残った女たちは手に穴をあけられ,縄を通して船のへりに括りつけられて盾とした。蒙古の残虐さは欧羅巴でも行われ大いに恐れられていた。元の総司令官は日本から連れ去った少年・少女二百人を奴隷として高麗国王と妃であるフビライ・ハンの娘に献上する。

 

勢いづく元軍は19日に千隻近い船が博多湾に集結する。

指揮官である守護、少弐景資率いる日本軍は、まず鏑矢という矢を撃った後、武士がそれぞれ一人で名乗りを上げて突っ込んでいった。先懸(さきがけ)といって,真っ先に敵陣に入っていたものの手柄が第一だった。
鷹の羽の鏑矢がしゅるしゅると飛んできたのを元軍が笑ったという。

 

一方、元軍は鉦カネや太鼓の合図で兵達が動く集団戦法だった。
また日本の弓の射程距離が100m弱だったが、元軍の弓は200mと二倍ほどもあった。これはウオレスの時の武器能力の差とまるきり同じであった。
しかも元の矢には毒がぬってあり武士たちを苦しめた。元軍が新兵器・鉄砲という手榴弾まで武士たちへ打ち放った。


「やあやあ我こそは・・」と吾プロフィールを大声で上げている日本の武士は、強弓を射られ,鉄砲が炸裂して大混乱する。戦功の証として敵の首を切り取っている間に討たれた武士も数多くいた。

 

博多の町は逃げまどう市民で混乱し,多くの人が捕らえられたり殺され、夜には町のあちこちから火の手が上がる。戦いは一方的に元軍が優勢で、日本軍は遂に太宰府まで後退。

 

しかし当時の武士は元軍の予想を上回るほどの戦闘力を持ち、死にものぐるいで戦い続けたのだ。恩賞目当てもあるが、時宗の獅子力が末端まで伝わっていた。
なんと少弐景資の放った矢で元軍の副将が射落とされるということまであった。

 

夜になって両軍とも兵を引くのだが、元・高麗連合軍は陸地に前線基地を築くことなく、全軍、博多湾に停泊していた船に引き払ってしまった。

 

一夜明けて日本の武士・御家人らは今日も熾烈な戦いが続くと思っていたがキツネにつままれたようにあっけにとられた。
湾内にひしめき合った船がすべて姿を消していた。

 

高麗の記録によると船で、元の総司令官クドゥン、副司令官、ホン・タグ、高麗軍司令官、キム・バンギョン-が今後の展開について討議したという。
優勢ではあるが、疲弊している兵士、日増しに増える敵と戦うのは良策ではない、武器・食料の補給の問題もあるので撤退を決めたという。憶測では脅しの出兵が死に物狂いの反撃を受けたからという説もある。


元軍は帰還中不天候で座礁したりして、結果3~4万の兵力の13,500名失った。

 

 

縄文の平和と滅亡調査-29 <英勇2-ウイリアム・ウオレス>


                
◆約七百年前のスコットランドの出来事だった。

 

ウオレスが1270年ごろ生まれて青年時代1296年に、スコットランド王ベイリャルがイングランドエドワード1世に敗れてイングランドに連行され、悪名高いロンドン塔に幽閉されたという。スコットランドでは王が不在で、王権は事実上エドワード1世の手の内にあった。

 

その支配者イングランドエドワード1世はヨーロッパ大陸にも遠征に行き、手段を択ばぬ領土侵略拡大を人生としていた。


エドワードは支配下に置いたスコットランドから戦費を搾り取るため過酷な政策を次々と押し付けていた。スコットランドへ派遣されたヘッセルリグ監視官は、エドワードの虎の威を借り、スコットランド人には情け容赦なく高圧的政策を押し付けていた。

 

地元民には不利な巡回裁判は不評を極め人民の怒りはたまっていた。
エドワード1世は隷属国行きに魅力を持たせるため、領主として赴任する監視官に「結婚式を迎えた新妻の初夜権」まで与えた。

 

ウオレスは子供のころ、父が抵抗運動で殺された。村人たちが戦士を失った落胆と悲嘆のうちに埋葬する時に、近所の子供マリアンが花を優しく摘んでウオレスの心を慰めた。
みなしごとなったウオレスは叔父のもとに引き取られ、「腕を磨いて戦う前に、知識と教養を身につけよ」と他国に留学し、ラテン語やフランス語を達者に身につけた青年に成長した。

 

村に戻った青年ウオレスは、成長し花の娘になったマリアンと再会し、相思想愛のうちに婚約する。

そのおり監視官ヘッセルリグがウォレスの義兄弟を処刑するという事件が起こった。また、監視官の息子がマリアンに拒絶され振られたことから、婚約者マリアンは監視官に殺される悲劇へと追いやられる。


もともと穏やかだったウオレスは天国から地獄へ落され、復讐と愛国の獅子に変身してゆくのだった。

 

ウォレスは仲間と供にラナークの街を取り返すとして襲い、女と子供や聖職者は別として監視官ヘッセルリグと全てのイングランド兵を殺害に及ぶ。

この事件はスコットランド人民に勇気を与え、侵略者イングランドの兵達を追放するべく、ウォレスと供に武器を手に取り立ち上がるきっかけとなった。

 

ウォレスは、イングランドの過酷な統治に反発するスコットランド下級貴族・中間層・下層民の間で急速に支持を広げてゆく。ばらばらだったスコットランド人の抵抗運動はゲリラ的とはいえウォレスの指導下に国を挙げての抵抗に統制されてゆく。

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          1.7メートルの剣 左手は

一方スコットランド貴族は親イングランドだったうえ、ウォレスを身分の低い者と軽蔑していたので、積極的な協力はしなかった。

 

 

スターリング・ブリッジの戦いを勝ち取る
団結を強めたウォレスの戦士たちはスコットランド北部で抵抗運動を行うモレーの軍と合流し、1297年9月11日にはスターリング・ブリッジで、イングランド伯爵ワーレン率いるイングランド軍と戦った。
    スコットランド:騎馬隊300弱 歩兵5000~6000
    イングランド :騎馬隊2000  歩兵7000


兵力はイングランド軍の方がやや優勢で、圧倒的多数の騎馬隊とウールズ弓隊を擁していた。しかしウォレスはフォース川のスターリング・ブリッジとその先の湿地帯が一本道になっているという地の利を生かした。
スターリングはスコットランドの北部に抜ける交通の要所で、イングランド兵はスターリング・ブリッジを渡らねば攻め落とすことができなかった。当時は木製でわずか2騎の騎馬が通れる巾しかなかったので、全軍がこの橋を渡るには何時間もかかる。


ウォレスはイングランド軍の半数が橋を渡るのを見計らって、スコットランドの槍部隊が丘から一気に攻め降りた。

橋を渡り切ったが半分に分断され河を背にしたイングランド軍は逃げ場を失い、援軍も絶たれて全滅した。このようにイングランド軍の騎兵隊の機動力を発揮させぬウォレスの作戦が功を奏した。一方橋を渡っていなかったイングランド軍は、その軍に加わっていたステュアートらスコットランド兵が撤退してしまったので反撃できなかった。

 

それだけではなく、ステュアート軍にイングランド軍の食料も奪われ、逃げるイングランド兵が多数殺害されてしまった。
戦術とスコットランド兵の寝返りで勝利を収めた。これはウォレスの燃える情熱と知恵による成果といえる。

 

◆騎士となる
この戦功でスコットランド守護官(Guardian of kingdom)に任じられる。同時に騎士の称号サー・ウィリアム・ウォレスを与えられた。

ウォレスはスコットランドのかつての交易・外交関係を取り戻すべく、ヨーロッパと接触を図ってゆく。

上級貴族を取りまとめる名門貴族であるキャリック伯爵ロバート・ブルースは貴族達の保身とウォレスへの尊敬に似た感情との板挟みで、結局どっちつかずになってしまった。ウオレスが壮絶な最期を遂げると遺志を継ぐことになるのだが。

 

さて、ウォレス軍は勢いに乗ってイングランド北部ノーサンバーランドやカンバーランドに進攻した。留守を預かるイングランドエドワード1世の息子は親の叱責を恐れるあまり、指揮は乱れて負け戦が続いた。


◆フォルカークの戦いでエドワード1世と対峙
フランスにいたエドワード1世は、ウォレス軍の勝利の報を受けて、1298年1月に急遽フランス王フィリップ4世と講和し、イングランドに帰還する。
エドワード1世は報復を徹底し戦略を巡らせ準備を整え戦場へと急行する

 

ゲリラ戦も交えて善戦するウォレス軍といえど徐々に追い詰められて、1298年7月22日にエドワード1世率いるイングランド軍とフォルカークでの野戦を余儀なくされた。

コットランド軍6000人に対し、
イングランド軍は15000人と
イングランド軍が圧倒的に優勢であった

 

ウォレス軍は数に勝るイングランド軍を相手によく奮戦した。スコットランド軍は、なかなか戦いを仕掛けてこず、イングランド軍は兵糧が減り苦戦を強いられた。更にスコットランドの槍攻撃に、イングランド軍は手こずる。

 

そこで登場するのがイングランドに支配されているウェールズの戦士たち。ウェールズは長距離の敵をもうち落とす破壊力のあるロングボウの強力部隊だった。

イングランド軍はこの長距離弓を最大活用し、同時に短距離弓や投石でスコットランド軍は徐々に崩れ始めるのだった。


おまけに戦中、スコットランド貴族カミン率いる騎兵隊が一戦も交えずにウォレスを見捨てて撤退したのだ。ウォレスは騎兵なしで戦う羽目に陥り、一大決戦に持ち込めないまま撤退敗北を余儀なくされてしまった。

 

 

このフォルカークの戦いに敗れたため、ウォレス守護官を辞した。
のちスコットランドの守護官はブルースとなる。

 

 

◆フランスやローマで独立外交活動
この後ウォレスはフランスやローマを訪問してエドワード1世への抵抗運動の援助を求める交渉を行ったと伝わる。
ローマへはセント・アンドリューズ司教ランバートンと共に行った。ローマ教皇ボニファティウス8世はランバートンの訴えを聞いて、1299年にイングランド軍のスコットランド侵攻を批判し
スコットランドローマ教皇の権威の支配下にある」
スコットランドイングランド間のいかなる論争も、ローマ教皇自身によってしか修正されることはない」との宣言がなされた。
そして、エドワード1世にロンドン塔のジョン・ベイリャル王の釈放とその身柄をローマ教皇に引き渡すことを命じた。

 

フランスではフランス王フィリップ4世から金銭的な援助と、爵位と地所を与えられ引き留められた。しかしウォレスの愛国心は強く、1303年にはスコットランドへ帰国して、エドワードの支配への抵抗運動を継続した。

 

スコットランドへの侵攻に屈する
フォルカークの戦いに勝利したイングランドエドワード1世は、1300年からスコットランド侵攻を繰り返し、とうとう1303年5月に制圧してしまった。
さらにエドワード1世はウォレスを捕らえようと執拗に策を練り、賄賂と脅迫によってウォレスの配下たちに裏切りせざるを得なく策を弄した。そして1305年8月5日ついに、ウォレスはスコットランド貴族メンティスの裏切りでグラスゴー付近で生け捕りにされてしまう。五年に及ぶ捕獲だった。

 

 

◆大逆罪で残虐刑に耐えたウォレス
その後17日間かけてカーライル城を経てロンドンへ移送された。その道中の様々な町や村で市中引き回しにされるエドワード1世の勝利を印象付ける狙いだ。

 

8月22日にロンドンへ到着したウォレスは、ロンドン塔へ送られる予定だったが、ウォレス捕縛を一目見よう多くの群衆で道が塞がれ市参事会員の館に預けられ一晩監禁された。

翌日、ウェストミンスター宮殿へ連行され、そこに召集された法廷の裁判にかけられる。審判中月桂樹の王冠を被らされてなぶり者にされた。裁判官にエドワード1世への大逆罪を問われたが、裁判でウォレスは「自分はイングランド王に忠誠を誓ったことはなく、彼の臣民ではないので大逆罪など犯していない」と主張する。

 

筋書き通り有罪判決のもと、極刑に処せられる。2頭の馬の尻尾に結わえられ、8キロの道を引きずられた。引きずられながら石やゴミを投げつけられる。処刑場到着後、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑という残虐刑で処刑されたが音を上げなかったという。

 

◆引き継がれる勇気が独立へ
エドワード1世としてはウォレスへの残虐刑を見せしめにして、スコットランドの抵抗運動を恐怖で抑えつけようとした。それは逆にスコットランド国民を鼓舞する結果となる。


ウォレスの敗退と死でスコットランドイングランドに占領されたが、スコットランドの抵抗は終わらなかった。

抵抗運動はなんと臆病風を吹かせていた守護官ロバート・ブルースが引き継いだのだ。

 


ロバート・ブルースはいったんはエドワード1世に服従し、スコットランド王ロバート1世となる。

しかしエドワード1世が亡くなると反乱を起こし、1314年のバノックバーンの戦いで、エドワード2世率いるイングランド軍に勝利し、ロバート1世はイングランドからのスコットランドの独立を武力で勝ち取った。

 

ウオレスが死んで九年のちのことだった。

 


+++マルコの心得+++
1.勇気と教養
ウオレスは古代から同時代の歴史、当時の数学や科学にも造詣があった。

教会に対して崇敬の念を抱き、生涯にわたって『詩篇』を手沢本(遺愛の書物)として愛したという。叔父の言葉通り、諸国で教養を身につけて、エドワード2世の妻からも尊敬されたようだ。


残虐刑の時でさえ、「ウォレスの願いに応じて、暗くなってゆく目の前で、司祭が『詩篇』の頁を開けたまま持ち、それは死を迎えるまで続いた」という。

手には許嫁の思い出の布片が握られていた。

 

スコットランドでは脈々と英雄として崇拝されている。

 

2.穏やかな人格者ウォレスが、愛国心とはいえ多数の敵陣の中に突撃する死への恐怖に打ち勝ちえたのはなぜか----極刑に耐え忍べた勇気はどこから来ているのか、会って尋ねてみたい。


普通人にはありえない勇気が戦争好きで侵略者であるイングランドの王エドワード1世に対抗する勇気を人民に与えた。世界の多くの人々に知られ、人々の心をとらえ感動を与えている。

 

3.死への恐怖は乗り越えられるか
戦場では人を踏み台にして命を長らえる輩が多い。生存本能というが、聖なる人はそれを越える。

 

命を失うことは最大の“恐怖”、愛する人を失うは最大の“悲しみ”、現代人には金を失うは最大の“絶望”・・・・ウオレスのように潔く振り捨てる英勇は崇高だ。

 

 

ほんとかどうか知らないが、ウオレスの言葉

     『人は誰もが死ぬ、しかし本当に生きた者は少ない』
       "Every man dies, not every man really lives."

 

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               記念塔

 

 

 

 

リップルでDeFiが利用可能に──Wrapped XRP

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お若い人々に聞きたい。

次の暗号通貨のことを、かみ砕いて説明してほしい。

 

カタカナが多い文章は、その用語の意味がとんと分からんのです。

Rippleには大変期待しているマルコだから Help,Please

 

 

配信

news.yahoo.co.jp

Wrappedの戦略

  ∞

 

 

なんだ、これは・・・・ちんぷんかんぷん

 

 

 ウイルス感染詐称 時事

いつも使うパソコンがヘンテコになった。
それはGoogle Chromで起きた。

 

 

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Windows Defenderがどうのこうの訳がわからない表現だった。
読むのが大変だったのでほったらかし・・・

 

しばらくしてGoogle Chromが立ち上がらない
業務に支障、ため息が出た。七月に新調したPCなのに

 

あれこれ 十時間以上かけて調べた。
    OH! 詐欺師だった。

 

 

◆対処方法


一.『5分以内に電話せよ 050-5806-9688』と脅迫するので
 一切電話せず、電話番号そのものを調べたら詐欺師電話
      050-5806-9556も詐欺師ご愛用

 

二. ブラウザが立ち上がるならGoogle Chromの
  マルウェアなどの不正なプログラム(ソフトウェア)検索機能で消せばいい。

 

ホ. マルコはGoogle Chrom立ち上がらなくなったので、

  Google Chromを再インストールしたらもどにもどった。

 

 

マルコは目が悪くて見えなかったが、

脅迫には折れてはならんぞい

 

老いの十時間がいかに貴重か!!!!
おのれぃ 詐欺師どもめ、今に見ておれ。

 

             ★脅迫に乗ると
・電話する→
    「遠隔操作でPCをチェック」という案内をされ
     遠隔操作アプリをPCにDLさせられ→
     DLしてしまうPCを乗っ取られる
・また手順どおりに進めていく
    「有料なのでクレジットカード番号を入力してください」と促され→
    カード番号を入力するとカード番号を抜き取られる
  

   そして詐欺師共は宴会でどんちゃん騒ぎする

 

 

 

縄文の平和と滅亡調査-28 <英勇1-シャクシャイン第二部/2>

第二部

さてシャクシャイン・・・

 

◆戦争の前夜に恨みが募る
東の大集団メナシクル部族と その西に位置する大集団シュムクル部族とは接しており、狩猟権をめぐる争いがあった。鮭や 熊、鶴などの猟場での小競り合いである。
メナシクルの首長はカモクタインでシベチャリ(静内)に拠点が、
シュムクルの首長はオニビシでハエ(門別)に拠点があった。

 

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ところが部族間の揉め事に乗じて松前藩の配下の知行主は「メナシクルを乗っ取れば商場が意のままになるぞ」と焚きつけた。この甘言にオニビシは乗って、1653年メナシクル首長のカモクタインを襲って殺してしまった。副首長だったシャクシャインはその後メナシクルの首長を継いだ。

 

元々オニビシとシャクシャインは不仲ではなかった。
例えば幕府のお達しで不漁のラッコを50頭すぐに準備せよとの難題がオニビシに通達が来た。元々親しかったシャクシャインが苦労して海に出て捕獲して助けたこともあった。
しかし、松前藩がいい目をして二人の首長には苦労ばかりか、互いに反目し合うゆき違いばかりが目立つようになっていた。

 

部族間の抗争をは好ましくないとした松前藩は仲裁に乗り出し、1655年に両集団は一旦講和する。仲裁はアイヌ民族同士が争っていると、特産物の売買が円滑でなくなると判断したからで、その仲裁すると両方から礼の貢物が得られるためだった。
こうした過程を経てシュムクルは親松前藩となる。

 

1667年オニビシの甥がシャクシャインの同盟関係にあるウラカワで鶴を獲ろうとした。その際揉め事に発展して、シャクシャイン側に殺されてしまった。
東のメナシクルは前の首長カモクタインを殺され、西のシュムクルは甥が殺されたので互いに恨みを深めていった。

 

折しも、成り行きを見て金採り文四郎は猫ババして溜め込んだ砂金を元手に、幕府禁制品鉄砲を密かに狡猾な近江商人銀次郎から手に入れ、武力でアイヌたちを脅かして大々的に採掘を広げようと目論んでいた。文四郎は鉄砲の威力を傘にオニビシに恩を売りつつ、シャクシャイン首長とメナシクル部族を追い払おうと画策していたのだった。
後、それを見抜いたシャクシャインは鉄砲を巧みに奪い取った。

 

1668年5月31日(寛文9年4月21日)仲裁するといって中に入った金採り・文四郎の館にやって来たオニビシを、シャクシャインらが数十人で襲い殺害した。ある小説ではオニビシを殺したのは文四郎で、その罪をシャクシャインになすりつけたとしている。
なぜなら双方に二枚舌をつかった末仲裁を買って出たものの、藩にはまったく取り合ってもらえなかったのでなんとかつじつま合わせの窮極の果だったからだ。

いずれにしろ首長オニビシは殺され西のシュムクルはますますシャクシャイン首長とメナシクルを憎むこととなる。このあたりお互い正確な情報がないため、二部族間に疑心暗鬼を生じさせている。

 

 

◆復讐の鉄砲は与えられず引き金だけとなった
そこでシュムクル部族の人々やオニビシの家族らは、報復のため松前藩に食料と武器の貸与を二度にわたり求めに行ったが、酒や米は与えられても武器は断じて貸与されなかった。
武器貸与を断られ、二回目の使者であるオニビシの姉婿であったウタフが帰り道に疱瘡にかかりサル(沙流郡)で死亡してしまったのだ。和人が持ち込んだ疱瘡に罹っていた。

このウタフの死が松前藩による毒殺と誤って流布された。それは積もり積もった松前藩、ひいては和人に対する恨みににた感情を爆発させ、それまでのアイヌ同士の争いが突如として松前藩に対するアイヌ部族の恨み憎しみを高め団結蜂起へと向かっていった。

 

百年も複雑に絡まった出来事や苦難が、この誤報によってシャクシャインの戦いの引き金となったのである。
第一次世界大戦も些細ないざこざから大戦争へと雪崩打ったとまるきり軌を同じくする。

 

 

◆天の時は引き金を引かせた 
----メナシクルのシャクシャイン首長は沈思黙考した。

「吾らアイヌたちの唯一の交易相手和人は交易条件を一方的に劣化させている。
全土の同胞たちは生活が苦しくなるのに、暴利を貪る和人商人と松前藩は豊かになり、一方で策略をめぐらして吾らを殺し続ける」
アイヌはかってのように、サハリンや中国満州、日本の各地にでかけて自由に交易をしたい」
「先祖が守り抜いてきた神の恵み鮭が帰ってくる河は金採者に荒らされて交易のもとになる鮭が激減している。金になんの価値があるというのか?砂金採りたちは禍ばかりをもたらす・・・」
「和人は鷹や鶴を乱獲して江戸幕府や諸大名に贈っている。肌触りのよい毛皮をますます要求し、見返りの米などは劣るものを持ってくる・・・」
「部族の大きな争いは松前藩が仕組み、漁夫の利を得ている。
幕府と松前藩の駆け引きと押し寄せる和人、その他多くの事情がアイヌを滅亡へと押しやっている」と気づくのだ。

目の前のコタンをみると、部族の女子供など家族たちの生活は困窮して不満を募らせているのがひしひしと分かるのだった。

「ウタフの死が松前藩による毒殺」との誤報は、シャクシャインに決意を促した。
       時が来たのである。

◆檄は全土に
シャクシャインは敵対していたシュムクルを筆頭に、蝦夷地各地の各アイヌ部族へ対松前藩への蜂起呼びかけを決めた。

1669年6月21日、シャクシャインらは
松前藩を潰して、アイヌのための国土づくりと自由交易を復活させよ!』と檄を飛ばした。

 

                           f:id:Mtatibana:20211030184349j:plain



イシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。決起した2千の軍勢は鷹待や砂金掘り・交易商船を襲撃し、商人や船頭船乗りが犠牲となった。突然の蜂起に和人は対応できず東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺された。犠牲者の総数は355人以上に上るといわれる。


殆どがアイヌ達が敵とみなした職業人たちだったが、殺された和人の中には社会の片隅でほそぼそ生きる虐げられた人々が多数混じっていた。武士は三人だという。

 

 

さて、一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎広林が部隊を率いてクンヌイ(長万部国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えるとともに、幕府へ蜂起を急報し援軍や武器・兵糧の支援を求めた。幕府は松前藩の求めに応じ東北3藩に出兵を命じ、松前藩松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣した。弘前藩兵700は藩主一門の杉山吉成(石田三成の嫡孫)を大将に松前城下での警備にあたった。


シャクシャイン軍は毒弓矢主体でも鉄砲27丁を所有していたので破竹の勢いだった。当初松前藩軍は鉄砲16丁だったので、津軽南部藩などから鉄砲を借り受けて計70丁で応じた。
戦闘は8月上旬頃まで続いたが、内浦湾一帯のアイヌ部族と分断され協力が得られなかったことからゲリラ戦法も取り始めたシャクシャイン軍に不利となった。

 

 

◆寝返りの続発
このためシャクシャインは後退し、松前藩軍との長期抗戦に備えた。9月5日には本州から松前泰広が松前に到着、同月16日にクンヌイの部隊と合流し28日には松前藩軍を指揮して東蝦夷地へと進軍した。


さらに松前泰広は松前藩関係の深い親松前的なアイヌの部族を恭順させてゆく。アイヌ民族の分断が進んでシャクシャインは孤立してゆくのだった。部族意識が強く、長年の部族間対立や松前藩との関係に差があったために、中立を維持して蜂起軍に参加しなかった集団も多かった。蜂起したアイヌ松前藩へ寝返る部族が増え、松前軍として戦闘に加わった。

 

 

シャクシャインも謀殺され更なる搾取へ
シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えを見せていたが、鉄砲の威力で松前藩勢の優位の展開となってゆく。シャクシャインらは窮地に陥ろうとしており、部族の生きの頃を苦慮し、賠償物などを差し出し部下達の助命という条件で和睦を受け入れた。

松前勢としても戦いの長期化で交易が途絶したり幕府による改易を恐れた和睦の申し出だった。


和睦に応じたシャクシャインは11月16日、ピポク(新冠町)の松前藩陣営に出向くが和睦の酒宴で謀殺された。
ある記録では生け捕りされて鋸挽きの刑で晒し者にされて三日間生きたという。
いずれにしろシャクシャインは殺害され、アイヌ側の敗北に終わった。

 

 

シャクシャイン以外にもアツマ(厚真町)やサル(沙流郡)に和睦のために訪れた首長も同様に謀殺あるいは捕縛された。翌17日にはシャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落した。
指導者層を失った蜂起軍の勢力は急速に衰え、戦いは収束へと向かう。翌1670年には松前軍はヨイチ(余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品の受け取りや松前藩への恭順を厳しく確約させ、戦後処理のための出兵は1672年まで続いたという。

 

 

◆場所請負制という拷問制度
このシャクシャインの戦いの後、松前藩蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握る。松前藩は中立の立場をとり蜂起に参加しなかった部族を含めたアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文によって服従を誓わせた。
商場知行制から場所請負制へと変えることにより松前藩アイヌに対する経済的・政治的圧迫支配は最強となった。商場知行制は、松前藩が交易で得た利益をもとに生計を立てる仕組みだったが、場所請負制の場合は家臣たちが直接アイヌと交易をしない。アイヌ民族は、厳しい労働を課されたり、不公平な交易を繰り返される暗黒の未来の制度だった。
かたやアイヌにとって不利になる一方だった米と鮭の交換レートをいくぶん緩和するなど、融和策も行われたという。

 

◆クナシリ・メシリの戦い
その百年のち,松前藩アイヌ民族への支配が強化される中で起きたクナシリ・メシリの戦いは,強制的な労働の中で場所請負商人による非道な行為に対する怒りの蜂起であったが,松前藩アイヌ民族の集団同士で仲間割れをおこさせるなどして解決をはかり,これを最後にアイヌの人びとによる大きな戦いはなくなる。

このようにアイヌの人々は自由や権力を取り戻すこともなく三百年の間、徐々に衰退していって、五百年後の現在では少数民族になってしまったのだ。

 


  

 

+++マルコの心得+++
1.ばらばらだったアイヌ部族をまとめあげたシャクシャイン
 アイヌ史上まれに見る統率力があった。それは諸条件が整ったからでもあるが、
アイヌ民族の琴線に触れる大義があったからだろう。戦争の後半では大義が損得に変化した。

 

2.正確で客観的、素早い情報がいかに大切かがわかる。
マルコたちの金融戦場でもこれを重視している。

 

3.“金”が間に入ると物事全てまずい方向に行きがちだ
 和人はアイヌ語で最初隣人を意味する「シサム」だったのが、蔑称「シャモ」になったのは利益という金だった。

 

4.弱みは絶対作らない、なくす恐怖を捨てる
アイヌは鉄や米は自分で作ることができない。だから手に入れようとして相手につけこまれ金縛りの奴隷となる。元々米など食べていなかったのが、本州から米が入ってきてそれを主食としだしたからである。 

 

5. 総首長のシャクシャイン
「先が分かっていても抗しがたい大きな力のうねりがあって正すことはできない」
と思ったという。
天命には逆らえないし、それを受け入れる潔さがいる。