千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

富の托かり方 41-3  < 銭屋五兵衛Ⅲ-富国民利の大旦那>
    陰徳・富の活用の足跡:富国民利の大旦那


時代劇での定番セリフ…
    代官「越後屋、お主も悪よのう ふっふっ」
    越後「いえいえ、お代官様ほどでは・・・」
    水心に山吹が映り、魚心がにんまり泳ぐ

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            お互いすきじゃのう

当時代官は、忙しすぎて私腹を肥やすどころでは
なかったと歴史家はいう。さて、商人はどうか

 

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銭屋商訓三ヶ条を再度挙げる。彼の行動はここに集約されている。

一.世人の信を受くるべし
二.機を見るに敏(サト)かるべし
三.果断勇決なるべし        である

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◇信を受ける
一つ、
従業員の意見に耳を傾けて、どんどん取り入れた。
従業員はやる気を出して、商売は繁盛した。

一つ、
財政破綻寸前の藩の家老からの申出に、銭五は
「この五兵衛、力を尽くしまする」と謹んで返答し、
銭屋一丸となって実行した。

◇人々への慈愛
銭五六十歳前後に天保の大飢饉を目(マ)のあたりにして、
彼は飢饉への備えを常日頃から考慮して実行した。
天保の大飢饉は江戸時代の四大飢饉であり、
餓死疫病死者は数十万人にも膨れあがったという。
本多利明の経済論(経済=経国済民)をよく理解していた彼は、
更に鎖国の矛盾、幕藩体制そのものに疑問を抱いたに相違ない。

さて、銭五の経済の一端を示す。
・農民を救うため、粟が崎一帯の砂丘に防風林を造った。
 浜辺は寒風で砂を巻き上げ、人々は苦しんでいた。
 それを見かねた銭五は、自ら資金を出し日本海沿岸に松を植えた。
 孫のお千賀に語りかける銭五の植林への思いの丈は慈愛に満ちていた。
 植えて育った松の木の防風林、それは銭五の緑の海であった。(註三)

飢饉にそなえ薩摩芋(サツマイモ)の栽培を広めた。
 この芋の話は彼の懐の深さを表している。
飢饉への備えとして頭を痛めていた銭五は、
薩摩の甘薯が飢饉の年には豊作となることを知った。

早速、薩摩からサツマイモを大量に取り寄せ配った。
その年は米が豊作で、人々は「こげなものくえるがや」と
あぜ道に投げ捨てた。新規なものはなかなか受け入れられないのだ。

翌年も銭五は種芋を取り寄せ、妻まさは「もったいない」と
下男下女総動員で甘薯を育てた。

ところがこの年は米作は悪く飢饉となったので、
まさは豊作の甘薯をふかしてザルに盛り、
船頭・大工・人夫・農民に配った。

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       人々は「こげにうまい!」と感謝した。
百姓達は空腹に甘薯で、芋の栽培を自らやりたいと申し出た。
庫の甘薯も盗まれるという有様だった。
それで商売しようという銭屋の人たちの意見もあったが、
銭五は無料で芋を人々に配った。
「百姓達が自分で栽培して儲ければいいのだ。
わしは甘薯を運び、それで役目はおわった」と銭五はわろうていたと云う。

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・銭五が遠洋航海中、米国の商船から水を乞われて、
人々の反対を押し切って分け与えた。
 「彼らも人である。困ったときはお互いさま」
だという寛い心からだった。

◎そして、老境に達した銭五が最後に描いた夢。
それは前文に記した、河北潟の埋立である「銭五開き」である。
銭五は貧しい農民のため、藩のために私財をはたき、
その人々の反対と策略で獄死したのである。
運命の皮肉に恨みごとなく受け入れる潔さも兼ね備えていた。

これぞまことの経済の人、経国済民の偉人だった。

◇世界の広さを知っていた   

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          世界もそろばんも大きか

本多利明の経済論をまなび、「世界の中の日本」という観点から
日本全体を見渡し富国をどうするかを柔軟に実行している。
世界の情報を得ようと心がけ、開国・外国貿易・北防の急務を説いた。

・サンフランシスコの豪商と貿易
竹島(現在の鬱陵島)でアメリカ人と密貿易
・口之永良部島でイギリス人と砂糖の売買
択捉島でロシア人と交易
樺太の山丹人とも取引……
・香港・あもい・米サンフランシスコへ視察
 前記のようにタスマニア領有だけでなく、あちこちに地歩を築いていた
まさに、海外貿易の先駆者だった。
        

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             銭五の環太平洋

 


◇富国民利の大商人
彼は最初の頃は銭屋のためと思って仕事に励んだが、そのうち
「私は商売での利益を、皆と分かち合いたいのだ」と
考えが変わったという。

39歳前後に質草流れの船を元に自ら海運業を始め、
父が果たし得なかった事業を成功に導いた。
これは、時代の流れの変遷をめざとく見定めたからであり、
海の豪商とか、海の百万石といわれる成功の元である。

その他,銭屋家八ヶ条家訓も成功を支えている。


記録の尊重      (記録を大切にし人に見聞許さぬ事)
経済上の注意    (倹約)
奢侈の禁止     (贅沢せず商売大切)
主人の勤勉      (早起きして勤勉に)
敬佛勤行      (敬仏信心)
国法の遵守     (朝晩忘れぬよう):ほんま?
会計の正確     (金銀の出入り日々正確に)
家財の購入     (分不相応は固く無用)

今でも十分通用する家訓である。

これから察するに、自らは贅沢を慎み、人々には慈愛を施す。
ほとんどの金持ち、或いは普通の人は、自らは贅沢しても
他を潤す事は控えるのと反対である。

つまり大旦那 (インドでダーナ=与えること) なのだ。

◇大旦那
各地から文人墨客を招き援助を広めた。
五兵衛はとくに若いときから俳句を愛し、亀巣と号した。
その感化をうけ長男喜太郎(霞堤・荷汀)、
次男佐八郎(素由・曽由)三男要三(路堂)孫の千賀をはじめ
皆俳句を愛好している。

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孫の千賀は「朝顔に つるべ取られて もらい水」の加賀千代女の
生まれ変わりともいわれる程のたしなみがあった。
また茶道をこのみ、茶人としても一流で千宗室とも懇意だった。

書画・洋学をも好み、多くの文人、墨客たちと交流して切磋琢磨した。
人名略

◇蒔いた夢の実現
野望を成し遂げ、老境に達した男が最後に描いた夢。
それは、河北潟の埋立「銭五開き」であったが牢獄死して消え去った。
彼の富も一代で消え去った。

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                現在の農産物地図

しかし、その夢は100年を経て実現された。
河北潟の干拓は、金沢農地事務局に引き継がれ、
昭和38年、国営事業として着手されることになる。
昭和39~60年に政府と石川県がやり286億円かけて昭和60年
(1985年)に完成した。2300町歩をつくり、
48300石を増産したのだ。銭五開きの夢実現でる。註四

緑の農地に変わった今の河北潟を見たなら銭五はどう思うであろうか。

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             銭五開き 美しい緑


◇富の托かり方
加賀藩は強権を持って銭屋の財産を没収した。
その金額300万両。現在価値は推測3000億円。
大変興味があることは、藩がどのようにそれを活用したか、
もし銭五であればどう活用したかである。

加賀藩であれば、きっと財政窮迫だったから、
借金の穴埋めと自分たち士農工商の士の間で使ったであろう。
まず、極貧の農民達には使わなかったに違いない。

銭五の行動から推測するに、銭五の使い方は次の三点となると
・開国に備えての準備金と、先行投資、海外拠点充実
・貧しい百姓が食うに困らぬような諸施策と諸手段構築
・藩の窮乏対策

彼は悪徳ではなく、陰徳の商人であった。

さてさて、おぬしも悪じゃノ~と始めた記事だが・・・・

時代劇で悪商人の筆頭は西海屋、かたや、
良い商人として筆頭の屋号は加賀屋だった(註五)

不思議な附合である。  

  
まっこと、おぬしも偉いやっちゃのぉ-~

次回は彼の侍としてのまとめをして終える。

 

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註三)
孫の加賀は気立てのよい才女でもあり、特に気が合った。
銭五や父が投獄されてのち、藩トップに赦免を懇願し、
果ては入水自殺までにおよび、藩主の妻にお茶会に呼ばれたりした。
この辺りは小説的で割愛する。心労でカリエスとなって26歳で没。

註四
銭五の埋立工法では、経費がかさみ過ぎ、無理であった。
国営事業は埋立ではなく、湖を17キロメートル近い堤防で締切り、
潟の水を機械排水するという干拓工法。
近代土木技術の輝かしい成果である。

註五
週刊文春が2005年に「大岡越前」、「銭形平次」、
世直し順庵!」、「水戸黄門」(これのみ2002~2005年)の
悪商人と善商人の屋号をチェックした結果である