富の托かり方 41-4 < 銭屋五兵衛Ⅳ-時超サムライ>
大いなるものに帰依する侍魂:時超サムライ
調査を進めるほどに、銭屋五兵衛の“生き様”の裏にある
背骨の強靱さが浮き彫りにされてきた。
◇信仰に基づくもののふ
銭五は苗字帯刀を許されている。功労があった者に
藩が苗字と帯刀を与え、武士に近い者として扱ったのである。
名誉職でありながら、先祖が武士であったこともあり、
武家の町金沢での銭五には“もののふの魂”が息づいていた。
併せて、北陸は親鸞と禅の思想が織りなす信仰心がしみ込んでいる。
信仰とは宗教という狭い意味ではなく、
人を超えた大いなるものへの帰依をいう。
これらを併せて、銭五の臨終を解き明かしてみた。
五兵衛は取り調べの最中牢死したが、
心静かに残した辞世の言葉がある。
一.浄土の大役は、他力の大信心に任すべし
マルコ訳:人々の幸せを願うのであれば、
誠意努力し、宇宙の摂理・天道を信じ任せよう
二.この世の果報は、未来の縁(エニシ)に任すべし
マルコ訳:この世でよい結果を得ずとも、
長い未来の中で得られればよいではないか
三.この世の善悪の二つは、過去の縁に任すべし
マルコ訳:この世での善悪など問うても詮無いこと、
過去世の業縁として悲喜なく受入れ、来世で笑おうぞ
見事である
覚悟もさることながら、過去現在未来全てを受け入れて
天に任せる潔さ、ほれぼれする生き様であった。
経歴や言動からすると、普通の人と視点が違っている。
他の人々には理解出来ぬ、ある意味変人だったろう。
目先の狭い世界で生きるものは、自らを広い世界から分け隔て
『牢獄にすむ』人たちともいえる。
銭五は開明派の本多の影響か世界観が違っていた。
今風に言うとグローバル。
宇宙に飛び立つと、世界観が変わるという。それと同じだ。
また、信仰の賜物で自我という牢獄から寛い境地へ飛び立っており
とらえられ牢獄に拘束されても、心は自由であった。
牢獄におらぬ
決まり好きで幕藩体制維持にきゅうきゅうとする真面目な武士達にとって
銭五は掟破りであり、自分たちを脅かす極悪人だとしか見なかったろう。
たとえ藩を思い民を思っても、自分の殻からの視点が全く違っていると
行動や方策に雲泥の差が出てくる。
銭五はそれにも深い理解を示して、天の摂理に任せているのである。
いうなれば、日本人に脈々と流れる品格ある侍の魂を持ち、
時空を超えて生きた気概あるサムライそのものだった。
◇後世への影響
・河北潟の干拓事業である銭五開きは太平洋戦争後引き継がれ、
今では作物がたわわに実り人々の食卓を楽しませている。
めさき、飢饉はもう来ないのだ。
あの世で銭屋五兵衛は歓喜号泣したのち、
処刑にあったもの達と葡萄酒を飲みながら、
産物を賞味楽しんでいるだろう。
・安宅産業を産んだ、これはすでに記事とした。
2/28の記事・富の托かり方 35
・銭五記念館の受付のおばさまは米田志津子といい、 旧姓清水で父は銭五から五代目
「銭五の夢今に活かそう街づくり」とゆうてはった。
・川西市雲雀丘花屋敷の栄根寺に銭五の石碑が建立された。
日本貿易開祖とあり、明治35年の記念碑である。
住職の三代申しおくりで実現したのだった。さらに阪神大震災で放置された石碑も今は修復されている。何故か福知山線には『銭五の踏切道』があるのだ。
明治41年10/14朝日 銭屋五兵衛の石碑たつ
修復された碑
銭屋五兵衛踏切道
最後にオーストラリアのタスマニアで見つかった
銭五の領地という石碑について憶測惻隠する。註六
加賀藩も素知らぬ顔をして、銭五が獄死したといい、
密やかにオーストラリアへ流刑としたのではないか
銭五の侍魂が牢獄で潰えるのは惜しいし、
その方がロマンがあって面白く、満瑠壺の希望でもある
おしまい
註六
明治20年(1887)1月12日のこと、オーストラリアのタスマニア島を訪れた日本人が、偶然見つけた石碑の文字を読み驚いた。石碑には「加州銭屋五兵衛領地」とひらがなで書かれていたという。現地の複数の新聞が掲載したが、「まずい」と思った当時タスマニア最大のキャンベル陶器会社の英国人社長は石碑を撤去した。
註蛇足
満瑠壺は牛なら、牧草で育ったタスマニアンビーフが好みなのだ。
Zeni-beefならもっと旨そうだ。
タスマニア どこかにzenigoの地名があるかも
タスマニア紋章 銭五の紋所に変わっていたら・・・