ラオスでは人生に一度はお寺、仏門に入り修行をするらしい。
Savannakhetサバナケットに一ヶ月もかけたような感じでたどり着いて
その翌朝、近くを散歩した。
昼の灼熱を全く感じない爽やかな風に吹かれて
川べりの方へと足が進む。
そこには金色に輝く建物があって、自然とあゆみが誘われる。
中は仏教寺院のようだ。
人に何ですかと聞いても、Lao語は全くわかりもしない。
サバーイディー ສະບາຍດີ こんにちはというと
おっさんもおばさんも、敬虔に合掌してくれる。
どうもラオ語の読経らしき声が聞こえる建物に入ってみた。
めおとらしい中型の犬が二匹寝そべったお堂には、
上座に長老らしき人、右に高校生らしき出家僧達、左に子供僧達が
円座を組み朝食を静かに摂っていた。一言もしゃべらない。
おニューの黄色がかったりあるいは鮮やかな橙色の衣を着ている。
6、7才だろうか、ダブダブの衣がヒモでくくられたような姿もある。
ただ聞こえるのは地元のおばさんや婆さま達の合唱だ。
そのなかで若い出家僧達は托鉢で布施されたものだろう、
金属の大きな器から餅米を取りだして山のように台に積み上げ
一口大に手で握りとって口に運ぶ。
なかにはお菓子なども混ざっていて、在家の人々の思いやりを感じる。
一人のおじさんがかいがいしくあれこれ世話をしていた。
乞食(コツジキ)を食べ終わると、それぞれ大きな托鉢を持って堂から出ていった。
私は素直な敬虔さに打たれて深々と礼をして
まぶしい朝日のなかにでた。
向こうに黄袈裟を着た三人の若い僧がいて、マルコに手を差しだす。
その指先にはお菓子があった。
なんとはなしに、すなおに掌を青空向きにすると
その上にチョコレート菓子などが布施された。
会釈をすると更に手の上に乗せてくれる。
「こんなにも!」というと、にっこり笑った。
背に温かなまなざしを感じながら思うのだ。
どうも、これは修行の一つではなかろうか。
物惜しみする心、むさぼる心を
乗り越える練習ではないだろうか。
メコン川へと続く川に出て、花々をみあげ、
遠くに輝く仏舎利塔をみながら
マルコ自身の惜しみ心をつくづくと
懺悔せずにはおれなかった。
施したことも、施されたことも、施しものも
すべて忘れ、とどめないことが次の修行だ。
Laoの人々は川の水が流れるようにそれをしている。