千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

鄭和-2   マラッカ/マレーシア

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                                              令

 

令とは総指揮監、総大将をいう。
鄭和提督の回りにはこうした旗印がはためいていたに違いない。

 

鄭和は1371年に雲南省に生まれ、皆に育まれた。

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                               鄭少年とお爺ちゃん


少年時代に明国の元国勢力討伐戦争で捕虜になり、
去勢されて永楽帝に献上された。

 

マルコならギャーギャー悲鳴を上げて、くたばるだろうに
小学校六年ほどの少年鄭和は三日間も耐え抜いて
生きながらえたという。

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くさったりせぬ鄭和は、靖難の変 (1399~1402) で
功績を挙げて信任され、宦官の最高位である太監に推され、
永楽帝から鄭の姓を与えられた。

 

帝は宦官を明国外に派遣して朝貢を促し、
中華帝国を再現しようとした。


その一環として鄭和を南海に派遣した。下西洋という。

 

 

七回ある航海とも、2万数千人の乗組員をもつ大艦隊で、
のちのコロンブスの船と比するとびっくり仰天の規模だ。

 

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もちろん物騒な世の中だから、軍隊を大勢同行させたが、
ヨーロッパが行った植民地支配ではなく、
「中国の徳を慕って」の平和的朝貢を旨としたので
平和外交を実行し、随行する商人は通商を盛んにした(朝貢貿易)。

 


日本でもかの昔、遣隋使・遣唐使というのがあったが、
貢ぎ物(贈り物)を捧げてくるなら十倍~百倍返しするという、
なんともかんともため息が出る、太っ腹な朝貢受入れだった。

 

今のみみっちくもせせこましい
大国達は見習ってもらいたい。

 

鄭和の宝船艦隊の立ち寄ったのは、

 

マラッカ海峡マラッカ王国(マルコのいる所)、
南インドカリカット
イランのホルムズ、
アラビア半島のアデン、メッカ、
東アフリカのモガディシュやマリンディなどに及ぶ。

 

 

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                               『1421』鄭和アメリカ発見

 

遠く日本や北アメリカにいったという説もある。
ここまで来ると、加賀・海の百万石銭屋五兵衛の
オーストラリアの島タスマニアを買ったというのと似ているが、
マルコとしては胸躍る内容だ。


鄭和が第1回航海でインドのカリカットに到達したのは、
ポルトガルのバスコ・ダ・ガマ船団が到達した1498年より90年以上も
前だった。


バスコ・ダ・ガマの艦隊はわずか3隻、乗組員60名だったのとくらべても
鄭和の下西洋艦隊がどれほど大規模だあったかがわかる。

 


鄭和艦隊は世界史上でもまれな大木造船による艦隊だった。
艦隊の中心は大型艦船60隻前後、大型艦船だけでの航海は機動性にかけるので、
周囲に100隻前後の小船が付き従い、総計200余隻の艦隊からなっていたといわれる。

 


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艦隊の旗艦である巨艦は、「宝船(ほうせん)」と呼ばれ、'西洋宝船'ともいわれた。
まさしく‘宝を持ち帰ってくる船’だった。

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           宝船 

 

世界各地の支配者に明皇帝からの贈り物として与える諸貨物、
各地の支配者から皇帝に献上された宝ものが搭載されたからだ。

宝船は動きの鈍い巨艦だが大量の武器も装備されて、
軍事的能力も兼ね備えており、少なくとも400-500人、
場合によっては1000人に近い乗組員が乗り込んでいた
のではないかと推測される。

・・・宝船の大きさをメートルに換算すると、
最大の宝船は長さが約151.8m、幅が61.6m・・・に達したことになる。

 

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     <宮崎正勝『鄭和の南海大遠征』中公新書 >
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       馴染みある宝船:マラッカの銀行にて

 

大航海の背景と意図 (引用)
この大航海を可能にしたのは、宋・元時代の中国商人の
船による外洋進出で培われた造船技術と羅針盤、天体観測などの
航海術であり、ムスリム商人とのネットワークだった。

 

 

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         天体観測と羅針盤技術

 

 

 

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             商売繁盛

 

 

しかし、鄭和の南海遠征は民間の自由な貿易の拡大だけの狙いでなく、
あくまで明の国威発揚と、朝貢貿易の拡大にあった。
鄭和の艦隊には多くの兵士が同乗しており、場合によっては
現地勢力と交戦することもあった。

 

 

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      語り継ぐエピソード

 

 

アフリカから中国にキリンがやってきて皇帝も庶民も大喜びした。

また、ホルムズからライオンとヒョウ、アラブ馬、
モガディシュからシマウマ、ブラワからはラクダとダチョウなどの珍獣が
中国にもたらされたという。
急に寒い所に連れてこられて珍獣たちも苦労したろう。

 

 

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       どこの国の通貨か? 形が違ってる

 

七回の及ぶ下西洋航海は朝貢貿易だったため、明は多額の出費を必要とし
財政逼迫で中止となった。

 

さて、マルコが歩いているマラッカ王朝を建国した「パラメスワラ国王」は、
アユタヤ王朝(現在のタイ)などの強大国を牽制するため、
明国の使節団である鄭和艦隊を歓迎し友好親善を誓い、
基地港として官舎や倉庫を提供した。

 

現在のスタダイス広場・オランダ広場からマラッカ川の橋(タン・キムセン・ブリッジ)を渡って
すぐ右に曲がって5軒目にある鄭和博物館のあるところが、
初代国王から与えられた明国のマラッカ駐留オフィスだった。

 

600年も昔マラッカにはアラブ諸国やインド、アジア各地から商人が集まって
にぎわい、何百もの言語がとびかう国際都市・・・・

 

 

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それを思いつつ、鄭和が歩いたであろう道をマルコも歩いている。

 

 

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      鄭和博物館パンフレット