よく「マルコ、おまえようそんな事信じるなぁ」と
友からいわれる。
信じてだまされたらそれまでよ!と開き直っていた。
“ 信じる ”のは一方的な場合が多くて、
自分の都合や期待を優先する思考が潜んでいる。
「信じていたのに!」のあきれ声は代表だ
中学時代だったか、苦手な『社会』授業で覚えている言葉に
「ほも、ほみーに、るーぷす=人は人に狼だ」がある
マルコは結婚という制度を利用して自分だけの欲しい欲しい欲を
満たすことを求めるおなごに失望ばかりした。
また、表面ではきれい事を言っていても、
ことのつまりはカネカネ族の人におおく会った。
だから人は人に餌を求めて近づくんだという
街のハトと同じだとの不信が悲しく積もっていた
けれど、悲色の眼鏡を外してもいいかもしれない
自らがそんな悲色眼鏡で見るとそうみえてしまうものだ
不信は人を離反させ、互いを閉じこもらせる。
不信は日々自らの生命の土台をくさらせる。
不信は争いと共倒れをよぶ。
信には、人は信にて応じてくれることが多い。
中にはそれを利用して詐欺の類いをする輩がいたら
道を伴にする人ではない、離れてひとり行くがいい。
と近頃腑に落ちた。
過去の不信の堆積に気づいたいま
これらを削り除くことを日々心がけよう
ところで、佛光山寺の人々はにこやかな顔で
信じてくれた・・・・・
父上の睡蓮