千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

縄文の平和と滅亡調査-11 <知らぜざる人々>

釧路図書館には特にアイヌの資料が多い
棚は#554#539 子供用の棚も良い#536北道文庫・松本文庫
そこにも別途書籍たくさんある。

 

 

松浦武四郎 1818年から1888年 北海道の名付け親、6度蝦夷を探索に行く。 
アイヌ語を習得して彼らと親しく付き合った。

 以下「久摺日誌」より マルコ抜粋

アイヌたちは山の神様の祟りを恐れ草花を採ることは一切しない。
・空が急に真っ暗になり霧が立ち込め周囲がはっきり見えなくなったら、アイヌは山の神の仕業だろうと山の神にイナウを捧げて祈った。
・コロコクンイリル(小人)の家があった。 イズタイによると昔は小人がいたと言うが4.5m の穴だからおそらく穴居した普通の人だろう。
・この辺りの山中に住む人は80歳を超える人が多い。
・手当を与えると私の傘が破れているのを見て自分が作ったという傘をくれた。 その気持ちが実に嬉しく心に感じ入った。
・ある山に行く時、必ず雨になった。 アイヌが言うには「ここの山神は和人が嫌いなんです」ととても素直に自分を表出するアイヌたち、穏やかに、歌をあちこちで読んでいる心の余裕、自然の生き物の豊かさ、魚、鹿、植物・・・・感じ入る。
・先に着いた若者アイヌは木の皮を剥いで小屋を作り待っていてくれた。魚や鹿を採って探索の労をねぎらってくれた。なんと心が温まることか。風土の異なる土地で言葉も通じずまるで別世界にいるような心持ちだ。
・ 去年は鮭が不漁で、今年は他の小魚が少なく老人や子供の顔色はとても悪い。
・食料が届かず懐から銀貨を1枚出し「もし干した酒の蓄えがあれば買いたい」と アイヌに頼んだ。「金銀で買えるものがあればどうしてこれまで差し上げずにいましょうか」と取り合ってくれない。
 工夫して真鍮で飾りを施した年代ものの刀鍔を一枚渡してエタツホロに頼みに行かせると、なんと干した鮭をひと背負い持ってきてくれたではないか。
 アイヌは私たちが使っている金銀お宝と思わず、一枚の古い鍔を尊いものだとする。  その素朴さには驚きと感動を覚えた。
・五日ぶりに米が届いたのを腹いっぱい食べて寝た。 アイヌたちは鍋に焦げ付いた飯を茹でといてそれを酒に見立て酌み交わす。 古い樽の底をたたきユーカリを唄い、よがふけるのも忘れて楽しんでいた。夜中に目を開けると「さ、ひとつ一緒にどうぞ」「和人の歌を披露してください」と頼まれた。
(アイヌは酒は神を崇めるときにしか飲まない)

 

山本多助(1904年から1993年) はアイヌの文化伝承者・著述家である。北海道釧路市出身。

 


■前田正名:(まえだ まさな、嘉永3年(1850年) - 大正10年(1921年))は、明治期日本の官僚。男爵。明治政府の殖産興業政策の政策立案と実践した中心人物である。広大な阿寒湖周辺を買受け、アイヌの人と自然を守ってきた前田一歩園の初代園主。二代目正次、三代目正次の妻・光子は、太平洋戦争が始まった2年後の1943年(昭和18年)から1983年(昭和58年)71歳で亡くなる40年間を阿寒湖畔で生活し、アイヌを含めて多くの住民から“阿寒の母”と慕われた。

 

アイヌ縄文人智慧は別として、多くの和人との交流が微笑ましく

語り継がれている。  これらは千手観音の✋、一本にも当たらない。