千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

縄文の平和と滅亡調査-18 <転落と滅亡への一里塚>


松田伝十郎は江戸時代中期から後期にかけての幕臣・探検家。
1800年頃、間宮林蔵樺太を踏査し、樺太見聞の実測図を作った。

 

探検だけではなく、山丹交易によりアイヌの人々が騙され、大きな借財とそれに伴う家族崩壊を目の当たりにして、山丹交易改革を行った。

 

満州国の威信を傘に来て、山丹人は思い上がった態度でアイヌや和人たちに接し、帳簿を知らぬアイヌたちをだまくらかして若者や娘を人質として連れさっていた。


松田伝十郎は山丹人とアイヌ人との仲裁とアイヌの借財整理に尽力し借財を一掃したのである。
相手を甘く見ていた山丹人はお触れをバカにしたが、会所で傘をかぶったままの時は打ち落とされ、魚の皮で作った靴(ケリ)を履いたままだとむこうずねを殴りつけられ、くわえ煙管での態度には打ち折られたので、北海道での態度を改めたという。

 


交易の無知に乗じて山丹人が不当利益を膨大に獲っていたものを改革させて、アイヌたちに正当利益をもたらした。


もともと来客をもてなすアイヌは山丹人に宿泊料を取ることはなかった。

しかし騙され続け借金が膨らむのを見て、松田は宿泊や食事代を堂々と取るように指導し従来の風習を打ち破った。

そのお蔭でアイヌは苦境から立ち直ったのである。

 

松田が苦心算段した様子は下記からわかる。
https://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/files/00006900/00006975/dai5syou.pdf

 

山丹船はそれ以降、甘い汁が吸えなくなって激減したという。

 

幕末の混乱さなかでは日本国も、異国貿易に疎かったせいで、<金と銀の比価>の国際標準を利用されて膨大な大判小判を安く搾取された。別の言い方をすると価値を知らぬ愚かさといえる。


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交易にしても、商取引、金融取引全てにあっては「無知」が転落と滅亡への一里塚なのである。
これは、千年構想を長続きさせるときの、岩に刻み留める箴言である。
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  ※アイヌの苦境は松前藩からの山丹渡来品の催促や強要に応えるために、

   無理な買物をしたためだとも認識されている。