千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

 縄文の平和と滅亡調査-22 <交易ではなく贈り物の交換>

コツコツ読みすすめた中での抜粋です。

羅臼町史の第1巻


・ページ30:その昔羅臼はそうそうたる原始林に覆われ、夏直後の連なる知床山脈より流れ出す清冽な水が大小の滝となり河川となりて海に注いでいた。 山谷や沼沢には熊、鹿が横行し、狩猟の豊かな天然の宝庫であるばかりか、河川にはサケ・マスの大群れが遡り、海には豊富な魚群に恵まれていたであろうし先住民族の多くは河口にコタン(部落)を形成した。 

 


・ページ32:日本の歴史に登場するのは西暦658年およそ1300年ほど前のことである。 当時この大きな島は蝦夷と言われていた。 


・生活:最も古い文献西暦1618年キリスト教布教の調査をしたイタリア人シロラモ・デ・アンジェリスはこう記している。

 

蝦夷には将軍のようなその國全体を治め数万の民が服従する統治者もいない。日本の国にあるようなその国を分割している特殊な大名といったものもない。もし蝦夷が韃靼に合併されていたりあるいはこれに隣接していたとすれば、このような統治者というものについて例え属していないとしても少なくても幾分かは知るところがあったであろう。 ところが江戸では各人が単に自己の家の主人であるか、せいぜい少人数の使用人の主人でしかなく、しかも誰もが他の支配者のいることなどは認めていないし、また他の国にそうした統治者がいることも知らないのである。 それでこれらの事を考えると蝦夷という国はあらゆるたここから分離されておりこれらとは何らの関係も持っていないことが自分には明らかになった」と報告している。

今から350年ばかり前でさえ蝦夷地のアイヌ人の間に統治とか支配ということばかりか、その言葉すらなくまったくなく、人類の原始のあけぼのを感じる。 無政府的な自由天地の社会が形成されていたと見ることができる。


 このアイヌ人の生活している地域がいわゆるコタンで、コタンとは今日ではほとんど部落というように訳されているが、正しくは国あるいは世界という広い意味を持ち、アイヌの家のある所を持ってコタンとされ、多数の集落を形成しているところはもちろん、たとえ一戸ないしは二戸よりない部落も全てコタンであった。

 


・すなわち統治者のない社会において、一戸の家はがあればそこに住むアイヌ人の国であり世界であるのは当然で従ってアイヌ民族のコタンとは近い血のつながりをもって結ばれた同族の集団社会であった。

 


・しかも前述のような自由社会ができたということはそもそもアイヌ民族は古来から漁狩猟民族として発展し、農耕民族のように一定の土地に定着することがなく夏は“夏のコタン”と言って河口や海浜や漁労の幸を求め、冬は“冬のコタン”と言って産量の多い山に入って生活するといういわゆる遊牧民族として常に豊かな自然環境を追って移動する自由を持っていた。その分配については今日の釧路のアイヌの子孫によってかろうじて伝承されているペカンべ祭り(菱の実祭り)の原型に見られるように山や海、河沼でえられた獲物は全てを端に持ち帰り船べりを叩いて合図して分け合うと言う原始的な共産生活を営んでいたことが想像される。

 


・しかしながらこのような生活の中でも常に起きる天変地異やあるいは不時の災害疾病はあった。 それは科学的な知識の乏しい彼らにとってはまさに不可抗力の出来事として、見えざる力に対する恐怖は自ずと信仰関連に結びつき他の未開社会の場合と同じように呪術的な行事を行うシャーマニズムへの発展段階を示している。 そしてそれらの行事をつかさどるものはその集団社会における長老、すなわち族長の手に握られ、しかも1人で災害や疾病に限らず豊漁祈願や感謝祭などの催事も行う。また住民の紛争、犯罪の裁定、後に至っては他の集団との争い解決や生産の識者から交易の代表者にも当たるようになった。これがいわゆる首長である。首長はあながち住民の統治者ではなく平常はコタンにおいて他の人々と何ら変わることなくともに狩猟に携わり、ただ何かことがあれば裁者となり指揮者となり代表者となる人であった。

 

神からの贈り物
アイヌには文字がなく文献などによることができないため、過去の文化や歴史・生活を知ることは極めて困難である。クマ祭りなどのアイヌ民族の宗教観念の中に古い過去の社会における経済的な歴史の背景を物語っているとしている。熊祭りにおける信仰観念は「神の国で神は普段人間と全く同じ姿で人間と変わらない生活をしている。この神が時を定めてアイヌのコタンを訪れるが、そのとき神は特別な服装を身につけるのであって、山の神は熊の毛皮を身につける。

こうして神がコタンを訪れるのであるが、決して手ぶらで来ることはなく、土産に熊の肉を背負ってくるので、アイヌは大きな肥えたクマをシケカムイ(荷物を背負った神様)などと言って大いに尊敬するのである。山の神様はこのように熊の皮を着て熊の肉を背負って--いわゆるお土産の食料である熊の肉を熊の皮の風呂敷に包んで背負い--アイヌコタンの背後の山の上に降り立ち、そこで首長の出迎えを受けてお土産の荷物である熊の肉の風呂敷包みを与えその本来の霊的な姿に替えるのである。

熊が人間に狩り殺されることをマラプトネと言うが、それは山の神がはるばる背負ってきたお土産である熊の肉をそっくりそのまま人間に与えることによって(つまりクマが死ぬことによって)、山の神は熊の肉体から解放されその本来の霊的な姿に立ち返り首長の家のお客さんになるという考え方である。

そしてこの首長の家の賓客となった山の神は、そこで数日間滞在し飲めや歌えの歓迎宴を受け首長からたくさんの酒やシトキだんご、イナウ(木幣)などを頂戴してまたはるばる山の上の神の国に帰ってゆく。

神の国に帰ると部下の神々を集めてアイヌのコタンからもらった土産を分け与え、珍しいコタンの見聞を語り聞かせ盛大な宴会を開き、神々の世界での顔を一層良くするのである。


アイヌの首長はかねて稼ぎ貯めてあった毛皮やその他を背負って和人の所に行く。 和人の村に着くと背負ってきた毛皮やその他の品物お土産物として差し出し、和人の家のお客となりそこで数日滞在し飲めや歌えの大歓待を受ける。そして和人からは米や酒やタバコその他いろいろの品物をお土産に貰いはるばる来た道を戻ってコタンに帰るのである。

コタンへ帰ると彼は部落の人々を集め盛大な宴会を開き、和人の村で見聞した珍しいことどもを語り聞かせお土産の品々を一同に分け与え、コタンでの周知の敬意を一層強めるのである。 このような交易の風習は和人や異民族との間に行われる以前から同族の間にも行われていた証左であると思われる。

 

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アジアを遍歴して気づいた『分かち合い』は表面的には共通だけれど、アイヌの人々は神をそこに見ている。現代人は神がなくて金を見て崇める。