千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

縄文の平和と滅亡調査-24 <抑圧の系譜>

 

 

羅臼100年史より p77~  


アイヌの持ち物ははなはだ数少ない。 
家屋や衣・粗末な装飾品・船・武器・単純な家具調理道具である。


アイヌたちは小部落をなして国とか郡にあたる言葉がない。
血族を中心とした小集団をなし、資源を求めて点々と居を変えた。
血族以外に他の集団と混合することもあった。


・集団の首長は乙名(おとな)と呼んで村長を意味する。


松浦武四郎知床半島探検:幕末の頃
死を覚悟していたため遺言を書いて出発。
松浦藩の小役人たちがアイヌたちにどんな非道なことをしたかも記録している。


「和人の非道な仕打ち。海別ウナベツに船で上陸。


腰が二重になるほど曲がりし爺婆や見る影もなく破れてただ肩にかかるだけのアッシを着て、いかにも菜色をしている病人等はつえに助り、男や女が潮干にあさりける。みんなより来たりて、その理由を聞くに、舎利・アバシリ両所にては女は十六、七歳になり、夫を持つべき時に至れば、国後島へやられ、諸国より入り来たる漁者、船方のため自由に取り扱わらる。男子は妻を娶る年に成れば、その年盛りを百里以外の離島に過ごすこと由、ついに生涯妻を娶ることなく暮らす者多く、男女共種々の病にて病者となれば、働稼なる間は五年十年故郷に帰ることをなし難し。夫婦にて彼の地にやられる時は夫を遠き漁場へ遣わし、妻は会所の番人稼(共に和人)の慰み者とされ、いつまでも離れ置かるる。それを否めば辛き目に合うがゆえに、ただ泣泣く日々を送ること也。

 

このごとく無道の使い方に合うがゆえに、寛政中は二千余り有したが、今は半減になりけり。・・・・・日々の食なく、潮の干を待ち小貝を拾い、満ちれば野山に入って草の根を掘りて、つらき命をつなぐとぞ聞く。その憐さましければ、我らが蓄えの糧米をいささかづつ分け与えたり。」

 

 

同様なことが、松浦武四郎の故郷・三重県でも詳細に記されている。

www.pref.mie.lg.jp

 

同じアジア人であるにも関わらず、人は弱みに付け込むと
極悪非道をいとも簡単に行うのだ。

千年構想に然と記すべきことでありましょう。