千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

縄文の平和と滅亡調査-29 <英勇2-ウイリアム・ウオレス>


                
◆約七百年前のスコットランドの出来事だった。

 

ウオレスが1270年ごろ生まれて青年時代1296年に、スコットランド王ベイリャルがイングランドエドワード1世に敗れてイングランドに連行され、悪名高いロンドン塔に幽閉されたという。スコットランドでは王が不在で、王権は事実上エドワード1世の手の内にあった。

 

その支配者イングランドエドワード1世はヨーロッパ大陸にも遠征に行き、手段を択ばぬ領土侵略拡大を人生としていた。


エドワードは支配下に置いたスコットランドから戦費を搾り取るため過酷な政策を次々と押し付けていた。スコットランドへ派遣されたヘッセルリグ監視官は、エドワードの虎の威を借り、スコットランド人には情け容赦なく高圧的政策を押し付けていた。

 

地元民には不利な巡回裁判は不評を極め人民の怒りはたまっていた。
エドワード1世は隷属国行きに魅力を持たせるため、領主として赴任する監視官に「結婚式を迎えた新妻の初夜権」まで与えた。

 

ウオレスは子供のころ、父が抵抗運動で殺された。村人たちが戦士を失った落胆と悲嘆のうちに埋葬する時に、近所の子供マリアンが花を優しく摘んでウオレスの心を慰めた。
みなしごとなったウオレスは叔父のもとに引き取られ、「腕を磨いて戦う前に、知識と教養を身につけよ」と他国に留学し、ラテン語やフランス語を達者に身につけた青年に成長した。

 

村に戻った青年ウオレスは、成長し花の娘になったマリアンと再会し、相思想愛のうちに婚約する。

そのおり監視官ヘッセルリグがウォレスの義兄弟を処刑するという事件が起こった。また、監視官の息子がマリアンに拒絶され振られたことから、婚約者マリアンは監視官に殺される悲劇へと追いやられる。


もともと穏やかだったウオレスは天国から地獄へ落され、復讐と愛国の獅子に変身してゆくのだった。

 

ウォレスは仲間と供にラナークの街を取り返すとして襲い、女と子供や聖職者は別として監視官ヘッセルリグと全てのイングランド兵を殺害に及ぶ。

この事件はスコットランド人民に勇気を与え、侵略者イングランドの兵達を追放するべく、ウォレスと供に武器を手に取り立ち上がるきっかけとなった。

 

ウォレスは、イングランドの過酷な統治に反発するスコットランド下級貴族・中間層・下層民の間で急速に支持を広げてゆく。ばらばらだったスコットランド人の抵抗運動はゲリラ的とはいえウォレスの指導下に国を挙げての抵抗に統制されてゆく。

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          1.7メートルの剣 左手は

一方スコットランド貴族は親イングランドだったうえ、ウォレスを身分の低い者と軽蔑していたので、積極的な協力はしなかった。

 

 

スターリング・ブリッジの戦いを勝ち取る
団結を強めたウォレスの戦士たちはスコットランド北部で抵抗運動を行うモレーの軍と合流し、1297年9月11日にはスターリング・ブリッジで、イングランド伯爵ワーレン率いるイングランド軍と戦った。
    スコットランド:騎馬隊300弱 歩兵5000~6000
    イングランド :騎馬隊2000  歩兵7000


兵力はイングランド軍の方がやや優勢で、圧倒的多数の騎馬隊とウールズ弓隊を擁していた。しかしウォレスはフォース川のスターリング・ブリッジとその先の湿地帯が一本道になっているという地の利を生かした。
スターリングはスコットランドの北部に抜ける交通の要所で、イングランド兵はスターリング・ブリッジを渡らねば攻め落とすことができなかった。当時は木製でわずか2騎の騎馬が通れる巾しかなかったので、全軍がこの橋を渡るには何時間もかかる。


ウォレスはイングランド軍の半数が橋を渡るのを見計らって、スコットランドの槍部隊が丘から一気に攻め降りた。

橋を渡り切ったが半分に分断され河を背にしたイングランド軍は逃げ場を失い、援軍も絶たれて全滅した。このようにイングランド軍の騎兵隊の機動力を発揮させぬウォレスの作戦が功を奏した。一方橋を渡っていなかったイングランド軍は、その軍に加わっていたステュアートらスコットランド兵が撤退してしまったので反撃できなかった。

 

それだけではなく、ステュアート軍にイングランド軍の食料も奪われ、逃げるイングランド兵が多数殺害されてしまった。
戦術とスコットランド兵の寝返りで勝利を収めた。これはウォレスの燃える情熱と知恵による成果といえる。

 

◆騎士となる
この戦功でスコットランド守護官(Guardian of kingdom)に任じられる。同時に騎士の称号サー・ウィリアム・ウォレスを与えられた。

ウォレスはスコットランドのかつての交易・外交関係を取り戻すべく、ヨーロッパと接触を図ってゆく。

上級貴族を取りまとめる名門貴族であるキャリック伯爵ロバート・ブルースは貴族達の保身とウォレスへの尊敬に似た感情との板挟みで、結局どっちつかずになってしまった。ウオレスが壮絶な最期を遂げると遺志を継ぐことになるのだが。

 

さて、ウォレス軍は勢いに乗ってイングランド北部ノーサンバーランドやカンバーランドに進攻した。留守を預かるイングランドエドワード1世の息子は親の叱責を恐れるあまり、指揮は乱れて負け戦が続いた。


◆フォルカークの戦いでエドワード1世と対峙
フランスにいたエドワード1世は、ウォレス軍の勝利の報を受けて、1298年1月に急遽フランス王フィリップ4世と講和し、イングランドに帰還する。
エドワード1世は報復を徹底し戦略を巡らせ準備を整え戦場へと急行する

 

ゲリラ戦も交えて善戦するウォレス軍といえど徐々に追い詰められて、1298年7月22日にエドワード1世率いるイングランド軍とフォルカークでの野戦を余儀なくされた。

コットランド軍6000人に対し、
イングランド軍は15000人と
イングランド軍が圧倒的に優勢であった

 

ウォレス軍は数に勝るイングランド軍を相手によく奮戦した。スコットランド軍は、なかなか戦いを仕掛けてこず、イングランド軍は兵糧が減り苦戦を強いられた。更にスコットランドの槍攻撃に、イングランド軍は手こずる。

 

そこで登場するのがイングランドに支配されているウェールズの戦士たち。ウェールズは長距離の敵をもうち落とす破壊力のあるロングボウの強力部隊だった。

イングランド軍はこの長距離弓を最大活用し、同時に短距離弓や投石でスコットランド軍は徐々に崩れ始めるのだった。


おまけに戦中、スコットランド貴族カミン率いる騎兵隊が一戦も交えずにウォレスを見捨てて撤退したのだ。ウォレスは騎兵なしで戦う羽目に陥り、一大決戦に持ち込めないまま撤退敗北を余儀なくされてしまった。

 

 

このフォルカークの戦いに敗れたため、ウォレス守護官を辞した。
のちスコットランドの守護官はブルースとなる。

 

 

◆フランスやローマで独立外交活動
この後ウォレスはフランスやローマを訪問してエドワード1世への抵抗運動の援助を求める交渉を行ったと伝わる。
ローマへはセント・アンドリューズ司教ランバートンと共に行った。ローマ教皇ボニファティウス8世はランバートンの訴えを聞いて、1299年にイングランド軍のスコットランド侵攻を批判し
スコットランドローマ教皇の権威の支配下にある」
スコットランドイングランド間のいかなる論争も、ローマ教皇自身によってしか修正されることはない」との宣言がなされた。
そして、エドワード1世にロンドン塔のジョン・ベイリャル王の釈放とその身柄をローマ教皇に引き渡すことを命じた。

 

フランスではフランス王フィリップ4世から金銭的な援助と、爵位と地所を与えられ引き留められた。しかしウォレスの愛国心は強く、1303年にはスコットランドへ帰国して、エドワードの支配への抵抗運動を継続した。

 

スコットランドへの侵攻に屈する
フォルカークの戦いに勝利したイングランドエドワード1世は、1300年からスコットランド侵攻を繰り返し、とうとう1303年5月に制圧してしまった。
さらにエドワード1世はウォレスを捕らえようと執拗に策を練り、賄賂と脅迫によってウォレスの配下たちに裏切りせざるを得なく策を弄した。そして1305年8月5日ついに、ウォレスはスコットランド貴族メンティスの裏切りでグラスゴー付近で生け捕りにされてしまう。五年に及ぶ捕獲だった。

 

 

◆大逆罪で残虐刑に耐えたウォレス
その後17日間かけてカーライル城を経てロンドンへ移送された。その道中の様々な町や村で市中引き回しにされるエドワード1世の勝利を印象付ける狙いだ。

 

8月22日にロンドンへ到着したウォレスは、ロンドン塔へ送られる予定だったが、ウォレス捕縛を一目見よう多くの群衆で道が塞がれ市参事会員の館に預けられ一晩監禁された。

翌日、ウェストミンスター宮殿へ連行され、そこに召集された法廷の裁判にかけられる。審判中月桂樹の王冠を被らされてなぶり者にされた。裁判官にエドワード1世への大逆罪を問われたが、裁判でウォレスは「自分はイングランド王に忠誠を誓ったことはなく、彼の臣民ではないので大逆罪など犯していない」と主張する。

 

筋書き通り有罪判決のもと、極刑に処せられる。2頭の馬の尻尾に結わえられ、8キロの道を引きずられた。引きずられながら石やゴミを投げつけられる。処刑場到着後、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑という残虐刑で処刑されたが音を上げなかったという。

 

◆引き継がれる勇気が独立へ
エドワード1世としてはウォレスへの残虐刑を見せしめにして、スコットランドの抵抗運動を恐怖で抑えつけようとした。それは逆にスコットランド国民を鼓舞する結果となる。


ウォレスの敗退と死でスコットランドイングランドに占領されたが、スコットランドの抵抗は終わらなかった。

抵抗運動はなんと臆病風を吹かせていた守護官ロバート・ブルースが引き継いだのだ。

 


ロバート・ブルースはいったんはエドワード1世に服従し、スコットランド王ロバート1世となる。

しかしエドワード1世が亡くなると反乱を起こし、1314年のバノックバーンの戦いで、エドワード2世率いるイングランド軍に勝利し、ロバート1世はイングランドからのスコットランドの独立を武力で勝ち取った。

 

ウオレスが死んで九年のちのことだった。

 


+++マルコの心得+++
1.勇気と教養
ウオレスは古代から同時代の歴史、当時の数学や科学にも造詣があった。

教会に対して崇敬の念を抱き、生涯にわたって『詩篇』を手沢本(遺愛の書物)として愛したという。叔父の言葉通り、諸国で教養を身につけて、エドワード2世の妻からも尊敬されたようだ。


残虐刑の時でさえ、「ウォレスの願いに応じて、暗くなってゆく目の前で、司祭が『詩篇』の頁を開けたまま持ち、それは死を迎えるまで続いた」という。

手には許嫁の思い出の布片が握られていた。

 

スコットランドでは脈々と英雄として崇拝されている。

 

2.穏やかな人格者ウォレスが、愛国心とはいえ多数の敵陣の中に突撃する死への恐怖に打ち勝ちえたのはなぜか----極刑に耐え忍べた勇気はどこから来ているのか、会って尋ねてみたい。


普通人にはありえない勇気が戦争好きで侵略者であるイングランドの王エドワード1世に対抗する勇気を人民に与えた。世界の多くの人々に知られ、人々の心をとらえ感動を与えている。

 

3.死への恐怖は乗り越えられるか
戦場では人を踏み台にして命を長らえる輩が多い。生存本能というが、聖なる人はそれを越える。

 

命を失うことは最大の“恐怖”、愛する人を失うは最大の“悲しみ”、現代人には金を失うは最大の“絶望”・・・・ウオレスのように潔く振り捨てる英勇は崇高だ。

 

 

ほんとかどうか知らないが、ウオレスの言葉

     『人は誰もが死ぬ、しかし本当に生きた者は少ない』
       "Every man dies, not every man really lives."

 

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