千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

夢の複利効果

 エコノミスト誌(2025年6月)に、ある男の話が載っていた。彼はバフェットと知り合い、バークシャー株を買い、59年間ひたすら持ち続けただけだ。2万ドルは複利という時の揺りかごで、いつしか10億ドルになっていた。

 彼の死後、その金は妻の手によってある場所へと流れていった。ニューヨークでもっとも収入の少ない地域、ブロンクス。そこにある医大の学生たちは、卒業時に平均20万ドルの借金を背負う。その学費が、昨夏から無料になった。原資は、この男が59年間動かさなかった株式の遺産。発表の瞬間、学生たちは歓声をあげ、なかには涙ぐむ者もいたという。

 

ここにあるのは――お金を使うことを、先へ先へと送り続ける――という暮らし方だ。
バフェットの親友チャーリー・マンガーは言う。

 「早く金持ちになろうとするのは危険だ。私自身、ゆっくり金持ちになった。
    それはむしろ心地よいプロセスだ」

 世の中は消費を急かす。使わない者をケチと呼び、国は消費喚起という言葉で美徳を語る。だがバフェット達はその逆を行く。
  「使った後に残った金を貯めるな。貯めた後に残ったものを使え」

 

マルコは、この話を聞いて思う。複利が働くのは、お金だけではないのではないか、と。
 夢もまた、複利で増える。

 今日交わした一つの会話、今日育てた一つの志、今日読んだ一冊の本、それらはすぐには形にならない。二十歳のときの小さな夢想が、六十歳で本になり、八十歳で誰かの人生を変えるのだ。

 范蠡は最初、将軍として敵国呉へ人質となり、持てる財で欲深い官僚を手なずけ、故郷の美女たちを敵国の王に差し出すなど、長い忍従の期間を経て勝利した。勝利に安住するはずが、すべてを捨てて転身したのが范蠡。
その後、三度築いた富も、一夜にして成ったものではなかった。一滴一滴が積み重なり、やがて川になり、誰かを潤す力になった。

 

 世界人企画も、今は取るに足らない種にすぎない。誰の目にも留まらない。
だがマルコは知っている。複利とは五十年あるいは百年を経て、ようやくその凄みが現れるものだということを。持ち続け、待ち続ける忍耐の末に顕れる。

 

 ブロンクスの学生たちが涙を流したあの瞬間は、59年前、ひとりの男が「今は使わない」と心に定めた、その選択から始まっている。

 マルコもまた、今日の一円、今日の一時間、今日の一つの志をムダにせず、自分の手で育ててゆく。時節を迎えた暁に大きく託し、誰かが歓声をあげるその日のために。
 夢もまた、複利で増える。ただし、それを信じて待ち続けられる者にだけ。

 

酔いよ醒めるな


女は恋に酔い、男は酒に酔う

 

昔、ある知人の奥方が、「韓流ドラマの『愛』には、本当に憧れちゃうわ」と
とろけるような笑顔で語っていた。


その隣で、旦那はといえば、晩酌こそが一日のすべてであり、至福の楽しみだ。

 

かくいう私は、この三年間、酒粕(私は華粕と呼んでいる)に、すっかり酔わされている。
食事から菓子作りまで、朝から晩まで「華粕」にまみれ、常にほろ酔い気分だ。

おかげさまで、肝炎の淵からは奇跡的に生き返ったが、いずれ華粕性肝疾患という、世界で私だけの珍病でコロリやおまへんか、と華粕の神様に冗談をいっている。

 

    おまけに、重症の誇大妄想症---
            マルコは夢にも酔いつぶれてる

 

 

バラ科礼賛

 

梅や杏、桃、そしてリンゴ。私たちが漬け込んで、とにかくおいしい果物はどれもバラ科の仲間です。


生で美味しいキウイなどを乾燥させてみりんに漬けました。けれどなにか物足りない味になります。けれどバラ科の果物は時を経るほどに、えも言われぬ深いコクとまろやかさを生み出します。

 

その秘密は、バラ科だけが持つ熟成の魔法にあります。

彼らは豊かなクエン酸やリンゴ酸を蓄えて、これが時の神がカドを除き深い旨味へと育てます。そのあと硬い「種」が魔法かけます。長く漬け込むと種の中からアーモンドや杏仁を思わせる芳醇な香がじわじわと溶け出し、液体に気品と至上のコクを醸すのです。恋人に贈ったアマレットはまさにこれです。

 

親の木から栄養を沢山受けとった完熟梅が、年月を経て極上の雫へと生まれ変わる。

 

マルコが3年熟成させた梅シロップの豊かな味わいは、まさにバラ科の植物が持つ神秘の力と、時の魔法がくれた最高の贈り物です。

 

 

手から手へ

 


父の頑丈な軍隊行李がオークションで売れた。今まで貴重品を入れる保存箱としていたが、身辺整理で手放した。

物資不足の時代に作られたものだが、手入れが良かったのだろう、今でも十分使える代物だった。


思い出をたどりながら梱包して、さてさてどのように郵便局に運ぶか、しばらく思案した。

知り合いのSさんが何でも持っているので相談してみたら、上等な手押し車を貸してくれた。そ

れで運んで行くと、郵便局の職員は目を見張った。大きな荷物だったし大きな音がしたので、みんなの注目の的になってしまった。なじみにしているので、テキパキやってくれ、無事発送にこぎつけた。


これで大きなものはほとんど欲しい人のところに届き、手元の切手とともに思い出の品々は日本全国へと旅立って行った。


手押し車を返しに行ったら「これどうぞ」と、立派なきゅうりをもいでくれた。

みるにつけて「あんた、健康優良児だね」と語りかけつつ、今日の昼ごはんと晩ごはんのごちそうになってもらった。


梅雨だというのに晴天続きだったのが、三日前は嵐と雨で外に出られないほどだった。その中を近くの公園まで行って、ほどほどに熟れた梅を収穫した。外国の人が通りかかり、欲しそうにしていたのでたくさん分けてあげた。

80サイズの箱一杯に収まった梅は、知人のところに行っていろいろ加工されるだろう。

マルコはほんの少し、梅シロップと梅ジャムを作った。3年ほど経てば、美味しく熟成する。
人が作ったものも、自然が育んだものも、ぐるぐる回る。

 

     

 

毎日が寄付

宝塚市に100億円を寄付した篤志家がいる、という話を耳にした。長く宝塚に身を置いていたからこそ自然と届いた。

 

マルコは寄付をしない。自分の手で稼ぎ、長い時間をかけて積み上げてきた富を、その重みを知らない誰かに託すのは、ざるに水を注ぐようなものだと考えているからだ。かつてフォスターペアレントという団体に寄付をしていた。しかし子供たちのもとに届くのはわずか1割程度で、残りは職員が自由に使っていた。その実態を知ったとき、寄付の手を引いた。

 

宝塚市の例でも尊い志は新病院の建設で素晴らしい。だがその裏では、建設業者、医療機器業者、造園業者が群がり、利権が絡み合っていく。監査機関は機能しにくく、使途は透明性を失い、成果の報告も曖昧なまま霧の中に消えていく。
寄付金は税金ではないという理由で議会のチェックも甘くなり、いつしか「誰も責任を取らず、誰の目も届かないお金」になりがちだ。

 

そうした風景を見つめながら、マルコはひとつの結論にたどり着く。「自分の手で、自分の目の届くところで、良いことに使おう」。中抜きという無駄を一切挟まず、志がそのまま実を結ぶように。

 

 

                 マルコはもっと年老いてます

 

 

前のブログでも触れたように、USスチールの前身を築いたカーネギーは、富とは社会から預かったものであり、死ぬ前に還すべきものだと考えていた。図書館の建設に資金を出すときも、「運営費は自治体が負担すること」という一つの条件をつけた。寄付された金が無駄に消えていかないよう、仕組みそのものに祈りを込めたのだろう。

 

もう一人憧れの人物がいる。中国春秋時代の范蠡。越王勾践を助けて呉を滅ぼした後、彼は権力の高座から潔く身を引き、商人として生きる道を選び、巨万の富を築いた。三度、富をなし、三度そのすべてを人々に施した。「三散家財」と呼ばれている。彼はこんな言葉を残している。「財は流水のごとし。流れてこそ清く、滞れば濁る」。


今、マルコが力を注いでいるのは、鈴木大拙の言う「世界人」を育てる企画だ。国籍や民族、思想や宗教という縛りを越えて、普遍的な霊性のうちに生きる人を、ひとりまたひとりと育てていく。

三散家財の精神と、有効な寄付のかたちを重ね合わせながら、マルコの「毎日が寄付」は、これからどんな流れを描いていくのだろう。

 

提灯

最近、世の中では「初めに疑いあり」から物事が始まるようになってきました。 
その背景には、いくつかの理由が潜んでいるように思います。


・失敗が許されない空気 :一度だまされたり損をしたりすると「自己責任」と責められる時代です。 そのため、人は必要以上に防衛的になり、心を閉ざしてしまいます。


・顔の見えない関係の増加 :地域のつながりが薄れ、ネットでは相手の素性が分からないまま接することが多くなりました。 それは無条件に警戒心を膨らませます。


・心の余裕の枯渇 :忙しさやストレスに追われ「もしかしたら騙されるかも」という不安を受け止める余力がありません。人は最初から扉を閉めるのが楽だと感じてしまうのです。


本来は「互いを傷つけぬための知恵」であったはずの人間距離や警戒心が、 いつの間にか、相手を拒むだけの冷たさへと変わりつつあります。


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マルコは、古い人間だ。 アンドリュー・カーネギー、范蠡(はんれい)を敬い、 その背中にわが道を見てきた。

      



そして何より、 無条件に育ててくれた父上と母上、心を寄せ合える友人たちを、何ものにも代えがたい宝として抱いている。 彼らは言葉ではなく、 行動で信を示してくれた人々である。

 

   吾に崇な宝あり。 
   信には、信をもって応じる人々。


そのような人たちがいるからこそ、たとえ「まず疑う」暗い世となっても、 マルコは信を小さな提灯としてテクテクと歩いている。 

 

 

蓮華──泥を抱きしめる花の物語


この五年、私は「貧乏神いらっしゃい、怒り雷神いらっしゃい、災難神いらっしゃい」と、
世の片隅で冷たく扱われる神々を、そっと迎え入れてきた。
彼らはいつも門前払いされる。
だからこそ、座布団と抹茶を差し出してみたかった。

 


あるまだ明けぬ朝、夢の中で昔親しかった人と不忍池の蓮を眺めていた。
その人は静かに呟いた。『泥に負けない蓮は好き』と。

その言葉が水面に波紋を広げ、蓮へと届いたように思えた。
すると蓮が静かに囁いた。
「違うのよ。蓮は泥に負けないのではない。
 泥を抱きしめて咲くの」

 

泥は腐敗であり濁りだ。日々の暮らしでの様々な葛藤や苦難、失望と悲しみだ。
だが蓮にとっては、すべてが栄養となる。
私たちが避けようとするものを、蓮は根に変え張り、茎に変え伸ばし、花に変え咲かせる。

 

泥を拒む心は苦しみを生む。
泥を受け入れる心は智慧を生む。

 

蓮は静かに教える。
「泥が深いほど、花は高く咲く」と。

夜の静寂を破り、光へ向かって伸びるその瞬間、
花はまるで歓喜の声を上げるようにかすかな音を立てて開くという。
人生の幕が下りるとき、
その人の歩みがひとつの蓮華となって静かに輝く。

 

緑の華台に宿る黒い種は、千年を超えて生きる。
慈愛を潜ませ、再び光を求めて芽吹く。

 

泥を糧とする心は、永遠に残る種をつくる。

       

 

世界人企画の “千載一遇”


千年に一度の巡り合いを「千載一遇」と云う。元は千五百年ほど前、中国の史書にある賢君と賢臣の出会いを讃えた言葉だ。

いま私たちの周りには、まさに多様な「千載一遇」が満ちている。
  人と人の邂逅、
  人とものの巡り合わせ、
  人と情報や知識との結び合わせ――など
そのどれもが歴史を形づくる貴重な出会いだ。

 

現代は、ネットや交通網のおかげで表面的な「出会い」は容易になった。しかし、深い交流の価値は、年長者ほどよく知っている。AIもまた、夢物語から現実の助言者へと変わり、さらに自律型AI(AIエージェント)へと急速に進化している。この変化は、まさに一載一遇と呼べるほどの速度だ。

私は三十年前から「千年構想」を思い描いてきた。目先の変化はさざ波にすぎず、大きな潮流は変わらない。社会は集中から適度な分散へと向かう大きなうねりの中にある。

 

先人たちが積み重ねた技術と努力の上に、今、新しい社会が芽吹きつつある。自律型AIを動かすには膨大なエネルギーと設備が必要で、世界中でデータセンターが竹の子のように建設されている。半導体、通信網、電源、冷却、学習データ、セキュリティ──どれも一朝一夕に生まれたものではなく、長い年月の先人達の賜だ。それらが今、連鎖反応のように輝き始めている。

 

その壮大な景色を特等席で見届けながら、「せかいびと企画」として小さな種まきを、静かに続けてゆきたい。それが二十年余り待ったマルコの「ことの千載一遇」だ。

 

この世を去っても「人と企画の千載一遇」が、きっとどこかで芽を出すに違いない。

        

               これから始まる大きな花火