来る道、行く道 <楽はらく>
どんな仕事も役割も、よき足跡を残すには
揺るがぬ心を礎(イシズエ)にして、専心努力が要ります。
対人でも対仕事も、はては日常のすべて修行だなと思うのです。
ともすると、過去の出来事や記憶、感情のしこりで
現在をゆがめて見てしまいますね。
するとよい成果が得られません。 私自身のふりかえりです (^^;)
ですから今回は過去を払拭して、心を白紙にする体験を
つづることとしました。
数年前にドイツのワイマールで崇高な教会儀式に臨席しました。
荘厳な天上の音が聞こえ法悦の境地に至ります。
これは昨年マルコ日記に記しました。(9月7日天から降る音・地に満つる音)
Jakb(ヤコブ)教会での体験でした。
先日、ある禅宗の寺の “法会” に初めて参加しました。
それは、台湾の禅宗で少し日本のとは違っています。
日本の宗教の源だからでしょうか、禅宗と真宗や浄土真宗、
あるいは、自力と他力が統合されているのです。
さまざまなことが印象に残ったのですが、なかでも
荘厳な講堂で行われた儀式の素晴らしきこと。
楽器は打つものばかりです。鐘、鈴、木魚・・・名前は知りません。
その楽器に相和して、老若男女が心を込めた詩経を唱和するのです。
正に高野山でのお経を旋律にのせ合唱する声明(しょうみょう)
の元祖なのだと気づきました。
楽譜を一切使いもしないのに和している。
大層明るく、素朴な中に清らかさがみなぎる曲でした。
訳は分からないとしても、その中にいるとすべてを忘れて、
心が軽くなり、何も考えない最高の心地よさに導かれました。
その旋律の中で人は心をリセット出来るに違いありません。
楽はらくになるものなのです。
イスラムのアザーン(礼拝への呼びかけ)もコーランの
朗々とした旋律も同じでした。
父からある時、一つの遺言を受け取りました。
それは、『詩に興り礼に立ち樂に成る』という智慧です。
簡単に言い換えますと
「(人間の教養や修養は)詩によって奮いたち、
人を尊ぶ礼によって安定し、
音楽で心を養って完成するのだよ」と。
楽は人の心を清らかな寛い白紙に蘇らせます。
マズロー(米国の心理学者)のいうとおり 「究極目標は自分が最も大事だと固執する物事からの開放」 がここで為されるのではないかと予感します。
銀の鈴おと 金の鈴おと
ちかごろ、昔の人の智慧はなんと高みにあるのだろうかと
ため息が出るほど畏敬の念を抱くのです。