千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

縄文の平和と滅亡調査-31 <英勇3-北条時宗-後編>  長文

 

◆ネバーギブアップ同士の戦い

 

1275年10月に鎌倉幕府は120名の御家人に対し文永の役の恩賞を与えた。恩賞がなければ命をかけて戦わぬ武士だからで、次の戦いの準備でもあったが、元から奪えたものはなかった。


その恩賞は狭い土地,小さな屋敷などで今までに比べ見劣りするものだった、。多くの御家人にはろくな恩賞も与えられなかったが、次の侵略に備えることが急務だった。時宗にとって大義があっても、苦しい状況での準備であった。

 

 

片や元帝国、フビライは「わしはネバーギブアップ!!」と叫んだかどうかわからぬが、
文永の役の翌年,4月15日杜世忠を正使に元の使者として派遣した。
杜ら五名は戦いのあった博多をさけて山口県長門室津に上陸、天皇や将軍に面会し国書を渡そうとした。文永の役は「蒙古の恐ろしさを知らせる」のが目的だったが、「今度は目が飛び出る数の軍隊を送るぞぃ・・早う隷属せよ」という恐喝の使者だった。
そのため、杜は死を覚悟していたようだ。


案の定,鎌倉に送られた一行は龍ノ口で全員処刑され,見せしめとして首はさらされた。

34歳の杜世忠の辞世、「国を出るときに妻や子が尋ねた---いつになったら帰ってこられますか? 出世など求めず無事で帰って欲しいと・・・」

 

若き執権北条時宗南宋の師から「宋が侵略され滅んだのは蒙古を軽く見てだらだらと交渉していたからだ」と伝え知っていたし、仏光禅師からは「莫煩悩」(まくぼんのう:あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおせ)と迷いを払拭していたので、徹底的に戦う決意を示したのである。
鎌倉幕府は第2の侵略にそなえて九州全土と安芸(広島県)の御家人に対し異国征伐の準備を命じ,征伐に加われない御家人には博多に集まり防塁を築くことを命じた。
異国征伐は御家人への褒美として、高麗や中国へ打って出て領土や富をとることだ。

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               時宗

防塁は総長20キロメートル、2メートルの高さを誇っており、元軍の攻撃を防ぐに効果を発揮した。

 

ネバーギブアップのフビライは立て続けに1279年6月に周福を正使として派遣したが、なんと幕府は一行を博多で全員斬りすててしまった。杜が斬首された連絡がまだ届いておらず、周には気の毒の極みである。

 

使者が全員殺された報を受けフビライは怒り心頭、血圧が200を越した。
しかし心を鎮め、まずは1279年に南宋を征服し終えて
再び日本への侵攻し確実な征服を計画する。

 


◆世界史上最大規模の艦隊が押し寄せた弘安の役開始
1281年に元の四万人の兵士が軍船千艘ほどに乗り高麗から出航する(東路軍)。文永の役より一万人増員。
さらにフビライは征服を確実にするために隷属させた南宋から10万以上の超大軍を中国上海の近くの寧波から軍船三千艘以上に乗せ出撃させる(江南軍)。
東路軍は文永の役と同じく対馬壱岐から博多という航路をとり、江南軍は壱岐で合流するという作戦だった。
 
5月21日に東路軍の一部が対馬に上陸,6月6日に博多の志賀島に上陸した。主力の江南軍はまだ合流してはいない。
 
東路軍は上陸したが前回とうって変わって二か月以上苦戦を強いられることになる。
前にはなかった防塁に阻まれ、武士御家人たちに悩まされ続ける。そして関東からの御家人も到着しており士気が高まっていた。この時の日本軍は6万5千人程と言われる。

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鎌倉武士は夜になると敵船に乗りこんで火をつけ,敵の首を取るなどゲリラ戦を行い続け、竹崎季長もすね当てをかぶと代わりにして小舟で元の船に乗り移り攻め込んだと記録されている。

 

 

主力の江南軍は6月27日に佐賀の鷹島に集結する。鷹島での戦いも熾烈を極めた。

 

 

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伊万里湾に浮かぶこののどかな小島には荒波を避ける内海があった。元側は事前に台風が来ると予想して避難目的で内海に四千艘もの軍船がひしめいた。
そこに台風軍が北九州飛来する。大自然軍は、港をうめつくしていた四千の船をほぼ全滅状態にしたのだった。

 

元軍は大損害を被ったが全滅したわけではない。幾万もの江南軍の兵は健在で、鷹島に上陸して鎌倉武士と壮絶な陸上戦を繰り広げつづけた。

 

しかし元軍は態勢を立て直すことをあきらめ、范文虎将軍らは残った船で宋へ引き上げてしまう。四千の軍船のうち無事に帰り着いたのは二百隻だといわれている。

 

鷹島には多数の元兵が置き去りにされ、逃げ場なく悲惨そのものであった。
その死に物狂いの元兵との戦闘は7月7日まで続き,降参して捕虜となった無数の兵士はそれぞれの御家人の生け捕り分を記録された後,ことごとく首をはねられてしまたのである。今でも元軍兵士の首を埋めたと言われる,蒙古塚として残っている。

 

鷹島には江南軍の残存兵5000人を陸上戦で全滅させたとの伝承があるが、中国の史書「元史」には元兵十余万が取り残され日本武士が襲い、ことごとく死んだとある。高麗史には「大風にあい江南軍皆溺死す。屍、潮汐にしたがって浦に入り、浦これがためにふさがり,踏み行くを得たり」と記す。浦に埋め尽くす死体で歩き渡ることができたとという。士官や将官などの上級軍人の死亡率は七割以上、一般兵士の死亡率は八割以上という惨憺たる敗北だと伝える。

 

 

しかし日本国にとっては準備万端、奮戦をもとに見事に勝利した戦いであった。


恐ろしいフビライの命令で戦わざるを得なかった高麗兵と宋の兵達は浮かばれない敗北であった。その元兵達を弔って浮かばせたのは時宗であった。

 

ネバーギブアップの二人はその後・・・
フビライ・ハーンは3回目の日本侵攻、時宗は2回目の高麗侵攻を共に計画したが、資金難などのために両者共に断念せざるを得なかったという。

 

 

病気を患って自らの死期を悟った時宗は、1284年4月4日出家、子に執権を譲って他界した。    父の道を歩んだのである。

 

    ∞
時宗には偉大な仏教精神が宿っていて、真摯な禅の修行者であった。 禅が鎌倉及び京都に固く樹立されるようになり、武人階級の間に道徳的精神的影響を及ぼし始めた事は実に彼の奨励による。 日本と中国の禅僧間に端を発した不断の交渉は、両者のともに感心する精神的事項のみに限らなかった。 なぜかというに書物・絵画・陶芸・織物・その他多くの美術品が中国からもたらされたり、また大工・石工・建築家・料理人などがその主人達と共に日本に渡ってきたからである。 かようにして後に室町時代に発達した中国との貿易はその端をすでに鎌倉時代に発したのである。
 中略
当時の日本の天才達は僧侶か武人になった。 この両者の精神的協力は一般に「武士道」として知られているものの創造に貢献せざるを得なかった。
                        <禅と日本文化>
    ∞

 

 

北条時宗は決して英雄扱いされない。
敵と一騎打ちするようなパーフォーマンスがないからであろう。


しかし武人として葉隠れ的に、角笛を吹いて目立たつことなく、人民を守る気概を持ち、己のすべての時間を費やしその父よりも短い三十二歳の人生を閉じたのである。

 

まことの英勇とは彼のことであり、武のみならず先七百年に及ぶ豊かで奥深い文化の種をまき終えて去っていった。

 


+++マルコの学び++++++++++++++++

・失意泰然得意平然
仏光国師からは「莫煩悩」(あれこれ考えずに正しいことをやりとおせ)と示唆され、なんとそれを実行できた。断じて行わば、鬼神これを避くとはこのことである。
仏光国師自身、祖国の南宋で乱入した元兵を去らせたお人であった。

 

・マルコの名づけ元・マルコポーロの記述「ジパングは金の島」でフビライは大いに張り切って征服を試みた。 当時いたるところで、例えば北海道でも簡単に金塊が採取できたそうで、英勇シャクシャインの悲劇のもとでもある。
それを狙う権力者は必ず出てくる。今も昔も同じ人の性であると肝に銘じる。

 

・獅子奮迅の戦と慈悲の広がり
 彼は仏光国師のために一寺を建立した。それはまた、元寇で亡くなった日中両国軍民の霊を弔うためでもあった。  自国だけではなく国籍を問わない慈悲は神に通じるものがある。時宗の妻も禅に通じて、彼の死後尼となり円覚寺の真向かいに東慶寺を建て以後駆け込み寺として人々を救った。

 

彼は七百年の歴史の種をまいた。