千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

縄文の平和と滅亡調査-30 <英勇3-北条時宗-前編>  長文


---スコットランドでは英勇ウオレスが活躍していた七百五十年ほど前
正に時を同じくして、日本国では北条時宗をはじめとして武士が元・世界帝国相手に戦った。

 


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北条時宗(1251年-1284年)は執権時頼のひとりっ子であり、1268年の父の跡を継いだ時はわずか十八歳であった。 彼は日本が生み出した最大の人物の一人となった。 彼がいなかったなら、わが国の歴史は現在のごとくではなかったかも知れぬ。1268年から1284年までの執政の間、数年にわたって続いた蒙古人の侵入(元寇)を最も見事に粉砕したのは彼であった。
 時宗は日本国家の上に降りかかろうとした大災害を除くため天から遣わされた使者であったかのごとくに思われる。 彼は日本歴史における最大の事件の終末をつけるとともに逝ったのである。 彼の短い生涯は単純であった。

その全部はこの事件に捧げられた。彼はその時、 全国民の唯一の頼みであった。彼の不屈不撓の精神は全国民を支配した。彼の全存在は一致団結した軍隊の形となって、 西海の 狂瀾怒涛対する絶壁の如く突っ立った---      

                                                                                          <禅と日本文化>
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元帝国の野望
世界帝国だった元はこの頃中国の王朝南宋と対立していた。元の皇帝フビライ・ハンはこの南宋と日本が親交のあったと聞き、南宋を孤立させるため日本に服属するようにとの国書を携え使者を派遣させた。
時の天皇を補佐する執権は北条時宗。二十歳に満たぬ執権は国書を見てどう感じたのであろうか。

 

 

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                                        帝国皇帝 フビライ

=====大蒙古国・国書
「天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る。昔から国境が接している隣国同士は,たとえ小国であっても貿易や人の行きなど,互いに仲良くすることに努めてきた。まして,大蒙古皇帝は天からの命によって大領土を支配してきたものであり,はるか遠方の国々も,代々の皇帝を恐れうやまって家来になっている。

私が皇帝になってからも,高麗が蒙古に降伏して家来の国となり,私と高麗王は父子の関係のようになり,喜ばしいことである。高麗は私の東の領土である。しかし,日本は昔から高麗と仲良くし中国とも貿易していたにもかかわらず,一通の手紙を大蒙古皇帝に出すでもなく、国交をもとうとしないのはどういうわけか?
日本が我々のことを知らないとすると困ったことなので,特に使いを送りこの国書を通じて私の気持ちを伝えよう。

これから日本と大蒙古国とは,国と国の交わりをして仲良くしていこうではないか。我々は全ての国を一つの家と考えている,日本も我々を父と思うことである。このことが分からないと軍を送ることになるが,それは我々の好むところではない。日本国王はこの気持ちを良く良く考えて返事をしてほしい。不宣  至元三年八月(1266年・文永三年)
=====

 

1268年(文永五年)国書は外国との玄関九州の太宰府から幕府に、そして朝廷に届けられた。朝廷では連日会議をかさねた上で返書を出すことになったが、最終的には幕府の意向によって「返事をしない」つまり無視をするという結論にいたった。

 

元の使者は7ヶ月間待った上、明確な意思表示なしの返事を持って帰る。日本は返事をしないこと=国交を結ばないという断固とした返答であるとしたが、外国相手にその意思は通じなかった。元の使者は高麗人で困ったにちがいない。

 

隷属表明がないため、元は何度か高麗に命じて使者を日本に派遣させる。しかし高麗にも事情がある。日本と戦争になると兵や食糧の負担が大きく、天候不順などあれこれ理由をつけ途中で帰ったり,日本に蒙古との通商を勧めたりした。


フビライはすでに三度も使者を送っているにもかかわらず返事をよこさないため進軍を考えた。しかし,もう一度まってやろうと12年、元の使者趙良弼を立て、百人の部下を伴わせて日本によこした。高麗には任せられんと、フビライはその交渉に期待した。

 

もちろん元は戦争の準備は着々と進めていた。兵を高麗に送り,高麗はそのために土地や人や農耕のための牛を提供したので、庶民は草や木を食べて飢えをしのいだとつたわる。

 

 

太宰府に着いた趙良弼たちは「天皇や将軍に会わせないならこの首を取れ」と迫ったが,幕府は今回もノーコメント。1271年趙良弼は四ヶ月滞在後高麗に戻り,再び日本にやってきて一年間日本に滞在する。この間,趙良弼は日本のことをきめ細かく調べてフビライに報告した。この報告を受けたフビライは「大変よくできておる」とほめて余裕を見せているので、日本との脅し交渉だけではなく戦争の事前内偵だったろう。

 

 

時宗は二十一歳で国難を一人で背負う立場にあった。若き時宗の心うちはいかばかりであったろうか。
経験少なく執務に慣れぬ上、世界帝国からの恫喝に怯えつつ、無視という敵対関係を作った以上それに耐えうる体制を急がねばならないからだ。

 


◆かってない大国難に若き時宗が吼える
幸いなことに、父の背を見て北条時宗は育った。
北条時頼は武士としての心構えを、禅から学んでいた。中国南宋から高名な禅師を、京都からも禅匠を招いたのだった。そして二十一年間鍛錬修行し奥義を得た。幕府の御家人はこぞって主君に見習った。時頼は三十七歳にて死期を悟り、辞世の句をしたためて心安らかに逝った。
その姿は時宗の生きざまへと花開き結実する。

誠に驚くべきことは、この時期に中国南宋から来た諸禅師の許で、禅を学ぶ時間と精力と向上心を持ったことである。彼は仏光国師のために鎌倉の円覚寺を開山した。

 

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時宗はある時仏光国師に尋ねた。

時宗「我々の生涯の大敵は、臆病ということです。 どうしたらこれを避けることができましょうか」
仏光「その病のよってくるところを断ち切れ」
時宗「その病はどこから来るか」
仏光「時宗自身から来る」
時宗「臆病は、諸病のうちで私の最も憎むところです。 どうして私自身からそれが出てくるでしょうか」
仏光「何時の抱ける時宗という自己を投げ捨てたとき、どんな感じがするか。それを果たし得た時、余は再び会おう」
時宗「いかにしたらそれができますか」
仏光「一切の汝の妄念思慮を断ち切れ」
時宗「いかにしたら、わが諸々の思念と意識を断ち切れますか」
仏光「座禅を組むのだ。 そして時宗自身に属すると思う一切の思念をの源に徹底せよ」
時宗「私には面倒を見なければならぬ俗事がたくさんあります。瞑想する暇がなかなか見つかりません」
仏光「いかなる俗事に携わろうとも、それを汝の内省する機会として取り上げよ。いつかは汝の内なる時宗の誰なるかを悟るであろう」
                                                                               <禅と日本文化>
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時宗は多忙を極める執権の時間を縫って修行座禅にとりくむ。
そしてしびれを切らした元軍が万単位で押し寄せて来るのだった。


それは二度にわたり
文永11年1274年    10月    文永の役時宗24歳)
弘安4年    1281年 5月    弘安の役時宗31歳)
弘安7年    1284年    4月4日    死没(享年34、満32歳没)


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筑紫の海を渡って蒙古襲来の確報を受けた時、彼は仏光国師の前に現れて言った。
時宗「 生涯の一大事がとうとうやってまいりました」
仏光がたずねた「いかにしてそれに向かわれる所存か」

時宗は威を張って「喝!」と叫んだ。
あたかも目前に群がり来る数万の敵を叱咤し去ったたかのように。

 仏光は喜んでいった「誠に獅子児なり、能く獅子吼す」
これこそ時宗の勇気でありそれにより彼は大陸から渡ってきた圧倒的な敵軍に立ち向かって見事にこれを撃退したのである。            <禅と日本文化>
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◆高麗から元軍が押し寄せ元軍優勢:文永の役
1274年1月堪忍袋ブチ切れた皇帝フビライは日本を征服するため、従属させた高麗に日本征伐のため船の建造を命じた。
3万5千人の人員と莫大な木材を使い、わずか10ヶ月で900隻の大艦隊を建造させた。

1274年10月3日に三万の元・高麗軍は高麗の合浦を発ち、10月5日に対馬,14日に壱岐をおそい皆殺しとした。

 

守護代宗は騎馬兵八十名を率いて、上陸した千名の元兵と奮戦した。当時の武士達は鍛え抜かれたとはいえ戦死。元軍来襲の急報は鎌倉に二週間後に届いた。

 

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対馬壱岐の人々のほとんどは殺され,わずかに生き残った女たちは手に穴をあけられ,縄を通して船のへりに括りつけられて盾とした。蒙古の残虐さは欧羅巴でも行われ大いに恐れられていた。元の総司令官は日本から連れ去った少年・少女二百人を奴隷として高麗国王と妃であるフビライ・ハンの娘に献上する。

 

勢いづく元軍は19日に千隻近い船が博多湾に集結する。

指揮官である守護、少弐景資率いる日本軍は、まず鏑矢という矢を撃った後、武士がそれぞれ一人で名乗りを上げて突っ込んでいった。先懸(さきがけ)といって,真っ先に敵陣に入っていたものの手柄が第一だった。
鷹の羽の鏑矢がしゅるしゅると飛んできたのを元軍が笑ったという。

 

一方、元軍は鉦カネや太鼓の合図で兵達が動く集団戦法だった。
また日本の弓の射程距離が100m弱だったが、元軍の弓は200mと二倍ほどもあった。これはウオレスの時の武器能力の差とまるきり同じであった。
しかも元の矢には毒がぬってあり武士たちを苦しめた。元軍が新兵器・鉄砲という手榴弾まで武士たちへ打ち放った。


「やあやあ我こそは・・」と吾プロフィールを大声で上げている日本の武士は、強弓を射られ,鉄砲が炸裂して大混乱する。戦功の証として敵の首を切り取っている間に討たれた武士も数多くいた。

 

博多の町は逃げまどう市民で混乱し,多くの人が捕らえられたり殺され、夜には町のあちこちから火の手が上がる。戦いは一方的に元軍が優勢で、日本軍は遂に太宰府まで後退。

 

しかし当時の武士は元軍の予想を上回るほどの戦闘力を持ち、死にものぐるいで戦い続けたのだ。恩賞目当てもあるが、時宗の獅子力が末端まで伝わっていた。
なんと少弐景資の放った矢で元軍の副将が射落とされるということまであった。

 

夜になって両軍とも兵を引くのだが、元・高麗連合軍は陸地に前線基地を築くことなく、全軍、博多湾に停泊していた船に引き払ってしまった。

 

一夜明けて日本の武士・御家人らは今日も熾烈な戦いが続くと思っていたがキツネにつままれたようにあっけにとられた。
湾内にひしめき合った船がすべて姿を消していた。

 

高麗の記録によると船で、元の総司令官クドゥン、副司令官、ホン・タグ、高麗軍司令官、キム・バンギョン-が今後の展開について討議したという。
優勢ではあるが、疲弊している兵士、日増しに増える敵と戦うのは良策ではない、武器・食料の補給の問題もあるので撤退を決めたという。憶測では脅しの出兵が死に物狂いの反撃を受けたからという説もある。


元軍は帰還中不天候で座礁したりして、結果3~4万の兵力の13,500名失った。