千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

縄文の平和と滅亡調査-28 <英勇1-シャクシャイン第二部/2>

第二部

さてシャクシャイン・・・

 

◆戦争の前夜に恨みが募る
東の大集団メナシクル部族と その西に位置する大集団シュムクル部族とは接しており、狩猟権をめぐる争いがあった。鮭や 熊、鶴などの猟場での小競り合いである。
メナシクルの首長はカモクタインでシベチャリ(静内)に拠点が、
シュムクルの首長はオニビシでハエ(門別)に拠点があった。

 

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ところが部族間の揉め事に乗じて松前藩の配下の知行主は「メナシクルを乗っ取れば商場が意のままになるぞ」と焚きつけた。この甘言にオニビシは乗って、1653年メナシクル首長のカモクタインを襲って殺してしまった。副首長だったシャクシャインはその後メナシクルの首長を継いだ。

 

元々オニビシとシャクシャインは不仲ではなかった。
例えば幕府のお達しで不漁のラッコを50頭すぐに準備せよとの難題がオニビシに通達が来た。元々親しかったシャクシャインが苦労して海に出て捕獲して助けたこともあった。
しかし、松前藩がいい目をして二人の首長には苦労ばかりか、互いに反目し合うゆき違いばかりが目立つようになっていた。

 

部族間の抗争をは好ましくないとした松前藩は仲裁に乗り出し、1655年に両集団は一旦講和する。仲裁はアイヌ民族同士が争っていると、特産物の売買が円滑でなくなると判断したからで、その仲裁すると両方から礼の貢物が得られるためだった。
こうした過程を経てシュムクルは親松前藩となる。

 

1667年オニビシの甥がシャクシャインの同盟関係にあるウラカワで鶴を獲ろうとした。その際揉め事に発展して、シャクシャイン側に殺されてしまった。
東のメナシクルは前の首長カモクタインを殺され、西のシュムクルは甥が殺されたので互いに恨みを深めていった。

 

折しも、成り行きを見て金採り文四郎は猫ババして溜め込んだ砂金を元手に、幕府禁制品鉄砲を密かに狡猾な近江商人銀次郎から手に入れ、武力でアイヌたちを脅かして大々的に採掘を広げようと目論んでいた。文四郎は鉄砲の威力を傘にオニビシに恩を売りつつ、シャクシャイン首長とメナシクル部族を追い払おうと画策していたのだった。
後、それを見抜いたシャクシャインは鉄砲を巧みに奪い取った。

 

1668年5月31日(寛文9年4月21日)仲裁するといって中に入った金採り・文四郎の館にやって来たオニビシを、シャクシャインらが数十人で襲い殺害した。ある小説ではオニビシを殺したのは文四郎で、その罪をシャクシャインになすりつけたとしている。
なぜなら双方に二枚舌をつかった末仲裁を買って出たものの、藩にはまったく取り合ってもらえなかったのでなんとかつじつま合わせの窮極の果だったからだ。

いずれにしろ首長オニビシは殺され西のシュムクルはますますシャクシャイン首長とメナシクルを憎むこととなる。このあたりお互い正確な情報がないため、二部族間に疑心暗鬼を生じさせている。

 

 

◆復讐の鉄砲は与えられず引き金だけとなった
そこでシュムクル部族の人々やオニビシの家族らは、報復のため松前藩に食料と武器の貸与を二度にわたり求めに行ったが、酒や米は与えられても武器は断じて貸与されなかった。
武器貸与を断られ、二回目の使者であるオニビシの姉婿であったウタフが帰り道に疱瘡にかかりサル(沙流郡)で死亡してしまったのだ。和人が持ち込んだ疱瘡に罹っていた。

このウタフの死が松前藩による毒殺と誤って流布された。それは積もり積もった松前藩、ひいては和人に対する恨みににた感情を爆発させ、それまでのアイヌ同士の争いが突如として松前藩に対するアイヌ部族の恨み憎しみを高め団結蜂起へと向かっていった。

 

百年も複雑に絡まった出来事や苦難が、この誤報によってシャクシャインの戦いの引き金となったのである。
第一次世界大戦も些細ないざこざから大戦争へと雪崩打ったとまるきり軌を同じくする。

 

 

◆天の時は引き金を引かせた 
----メナシクルのシャクシャイン首長は沈思黙考した。

「吾らアイヌたちの唯一の交易相手和人は交易条件を一方的に劣化させている。
全土の同胞たちは生活が苦しくなるのに、暴利を貪る和人商人と松前藩は豊かになり、一方で策略をめぐらして吾らを殺し続ける」
アイヌはかってのように、サハリンや中国満州、日本の各地にでかけて自由に交易をしたい」
「先祖が守り抜いてきた神の恵み鮭が帰ってくる河は金採者に荒らされて交易のもとになる鮭が激減している。金になんの価値があるというのか?砂金採りたちは禍ばかりをもたらす・・・」
「和人は鷹や鶴を乱獲して江戸幕府や諸大名に贈っている。肌触りのよい毛皮をますます要求し、見返りの米などは劣るものを持ってくる・・・」
「部族の大きな争いは松前藩が仕組み、漁夫の利を得ている。
幕府と松前藩の駆け引きと押し寄せる和人、その他多くの事情がアイヌを滅亡へと押しやっている」と気づくのだ。

目の前のコタンをみると、部族の女子供など家族たちの生活は困窮して不満を募らせているのがひしひしと分かるのだった。

「ウタフの死が松前藩による毒殺」との誤報は、シャクシャインに決意を促した。
       時が来たのである。

◆檄は全土に
シャクシャインは敵対していたシュムクルを筆頭に、蝦夷地各地の各アイヌ部族へ対松前藩への蜂起呼びかけを決めた。

1669年6月21日、シャクシャインらは
松前藩を潰して、アイヌのための国土づくりと自由交易を復活させよ!』と檄を飛ばした。

 

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イシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。決起した2千の軍勢は鷹待や砂金掘り・交易商船を襲撃し、商人や船頭船乗りが犠牲となった。突然の蜂起に和人は対応できず東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺された。犠牲者の総数は355人以上に上るといわれる。


殆どがアイヌ達が敵とみなした職業人たちだったが、殺された和人の中には社会の片隅でほそぼそ生きる虐げられた人々が多数混じっていた。武士は三人だという。

 

 

さて、一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎広林が部隊を率いてクンヌイ(長万部国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えるとともに、幕府へ蜂起を急報し援軍や武器・兵糧の支援を求めた。幕府は松前藩の求めに応じ東北3藩に出兵を命じ、松前藩松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣した。弘前藩兵700は藩主一門の杉山吉成(石田三成の嫡孫)を大将に松前城下での警備にあたった。


シャクシャイン軍は毒弓矢主体でも鉄砲27丁を所有していたので破竹の勢いだった。当初松前藩軍は鉄砲16丁だったので、津軽南部藩などから鉄砲を借り受けて計70丁で応じた。
戦闘は8月上旬頃まで続いたが、内浦湾一帯のアイヌ部族と分断され協力が得られなかったことからゲリラ戦法も取り始めたシャクシャイン軍に不利となった。

 

 

◆寝返りの続発
このためシャクシャインは後退し、松前藩軍との長期抗戦に備えた。9月5日には本州から松前泰広が松前に到着、同月16日にクンヌイの部隊と合流し28日には松前藩軍を指揮して東蝦夷地へと進軍した。


さらに松前泰広は松前藩関係の深い親松前的なアイヌの部族を恭順させてゆく。アイヌ民族の分断が進んでシャクシャインは孤立してゆくのだった。部族意識が強く、長年の部族間対立や松前藩との関係に差があったために、中立を維持して蜂起軍に参加しなかった集団も多かった。蜂起したアイヌ松前藩へ寝返る部族が増え、松前軍として戦闘に加わった。

 

 

シャクシャインも謀殺され更なる搾取へ
シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えを見せていたが、鉄砲の威力で松前藩勢の優位の展開となってゆく。シャクシャインらは窮地に陥ろうとしており、部族の生きの頃を苦慮し、賠償物などを差し出し部下達の助命という条件で和睦を受け入れた。

松前勢としても戦いの長期化で交易が途絶したり幕府による改易を恐れた和睦の申し出だった。


和睦に応じたシャクシャインは11月16日、ピポク(新冠町)の松前藩陣営に出向くが和睦の酒宴で謀殺された。
ある記録では生け捕りされて鋸挽きの刑で晒し者にされて三日間生きたという。
いずれにしろシャクシャインは殺害され、アイヌ側の敗北に終わった。

 

 

シャクシャイン以外にもアツマ(厚真町)やサル(沙流郡)に和睦のために訪れた首長も同様に謀殺あるいは捕縛された。翌17日にはシャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落した。
指導者層を失った蜂起軍の勢力は急速に衰え、戦いは収束へと向かう。翌1670年には松前軍はヨイチ(余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品の受け取りや松前藩への恭順を厳しく確約させ、戦後処理のための出兵は1672年まで続いたという。

 

 

◆場所請負制という拷問制度
このシャクシャインの戦いの後、松前藩蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握る。松前藩は中立の立場をとり蜂起に参加しなかった部族を含めたアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文によって服従を誓わせた。
商場知行制から場所請負制へと変えることにより松前藩アイヌに対する経済的・政治的圧迫支配は最強となった。商場知行制は、松前藩が交易で得た利益をもとに生計を立てる仕組みだったが、場所請負制の場合は家臣たちが直接アイヌと交易をしない。アイヌ民族は、厳しい労働を課されたり、不公平な交易を繰り返される暗黒の未来の制度だった。
かたやアイヌにとって不利になる一方だった米と鮭の交換レートをいくぶん緩和するなど、融和策も行われたという。

 

◆クナシリ・メシリの戦い
その百年のち,松前藩アイヌ民族への支配が強化される中で起きたクナシリ・メシリの戦いは,強制的な労働の中で場所請負商人による非道な行為に対する怒りの蜂起であったが,松前藩アイヌ民族の集団同士で仲間割れをおこさせるなどして解決をはかり,これを最後にアイヌの人びとによる大きな戦いはなくなる。

このようにアイヌの人々は自由や権力を取り戻すこともなく三百年の間、徐々に衰退していって、五百年後の現在では少数民族になってしまったのだ。

 


  

 

+++マルコの心得+++
1.ばらばらだったアイヌ部族をまとめあげたシャクシャイン
 アイヌ史上まれに見る統率力があった。それは諸条件が整ったからでもあるが、
アイヌ民族の琴線に触れる大義があったからだろう。戦争の後半では大義が損得に変化した。

 

2.正確で客観的、素早い情報がいかに大切かがわかる。
マルコたちの金融戦場でもこれを重視している。

 

3.“金”が間に入ると物事全てまずい方向に行きがちだ
 和人はアイヌ語で最初隣人を意味する「シサム」だったのが、蔑称「シャモ」になったのは利益という金だった。

 

4.弱みは絶対作らない、なくす恐怖を捨てる
アイヌは鉄や米は自分で作ることができない。だから手に入れようとして相手につけこまれ金縛りの奴隷となる。元々米など食べていなかったのが、本州から米が入ってきてそれを主食としだしたからである。 

 

5. 総首長のシャクシャイン
「先が分かっていても抗しがたい大きな力のうねりがあって正すことはできない」
と思ったという。
天命には逆らえないし、それを受け入れる潔さがいる。