千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

縄文の平和と滅亡調査-27 <英勇1-シャクシャイン第一部/2>

<私は歴史家でも考古学者でもありません。
 目的は学問ではなく、千年構想に活かすための視点から綴っています>
                 


アイヌの歴史記録はない。伝承や歌による語り継ぎが主であり
伝承者によって微妙に違うところもあるという。

 

記録は和人(日本人)や西洋の宣教師、或いは大陸の中国朝鮮・山丹などの国によるものである。歴史は生き残り強者の都合と立場から書かれたものなので、アイヌの言い分はほとんど無視されていることに注意しなくてはならない。

 

さて---歴史は形を変えつつ螺旋階段のように繰り返す---


アイヌ民族の歴史における,和人との大きな戦いは3つある。
    コシャマインの戦い(長禄元 1457年,
    シャクシャインの戦い(寛文 1669年),
    クナシリ・メシリの戦い(寛政元 1789年)である。
この中で二つ目のシャクシャインを英勇として取り上げた。


第一部は戦いが起きるまでの背景
第二部は戦いそのものとマルコの得たもの  を記録する

 

 

+++第一部++++++++++++++++++++++


この戦いに先立つこと二百年前にコシャマインの戦い(長禄元 1457年)があった。
コシャマインの戦い
応仁の乱のちょうど10年前康正3年(1457)、客であるアイヌ青年が小刀(マキリ)を和人(日本本州人)鍛冶屋に注文した。ところが品質と値の折り合いがつかず口論に発展、怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの青年を刺殺した。これを端に怒ったアイヌ諸部族が北海道渡島半島東部の首長コシャマイン(胡奢魔犬、コサマイヌとも呼ばれる)の元に集結率いられ、和人の圧迫に対して蜂起した戦い。
12あった和人の館の10を占領して和人を大いに苦戦させたが、コシャマインが騙し殺されたためまもなく鎮圧され、和人の支配が強化された。
コシャマインの当て字を胡奢魔犬とした和人の奢りを観ることができる。

その後、アイヌたちは北方の異民族や中国大陸、日本本州などとも交易をしながら忍従適応しつつ民族の文化を伝承してきた。

二百年の時を経るにつれ新興の松前藩アイヌの人々の軋轢が積み重なってきた。

 

シャクシャインの戦いは
寛文9年(1669)松前氏の収奪に対して、アイヌの首長シャクシャインが全蝦夷(えぞ)地のアイヌを糾合し蜂起した戦いであった。本州では寛文蝦夷蜂起と呼ばれた。

 

 

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◆若きシャクシャイン
シャクシインの若き頃の記録がないらしい。どうやらシャクシャインは、狩猟で獲ったものとか戦利品を気前よくみんなに分け与えたそうだ。そうした事もあって、道東地区で名を挙げて諸部族のリーダー的な立場になったようだ。
部族の副首長だった時、道西部族に首長が殺されて首長のあとを継いだ。
多くの部族や民族、諸事情が複雑に入り乱れ、大きな戦争へと雪崩落ちていった。

和人の記録からすると、丁度本州では戦国時代を経て秀吉・家康時代のことであった。
北海の道南の半島に小さな松前藩が誕生した。昔からここはアイヌ交易地で、最初は友好的、そして商人や侍の欲望のもと、支配力を強めていた。

 

 

松前藩の事情
鎌倉時代後期、管領から追われた津軽の豪族安藤氏が北海道へ渡り、海産資源をアイヌに求め、代わりに米や酒・鉄製品を交換し生業とした。米が取れないからだ。また人気の高い毛皮や海産物を求めて、多くの和人たちも海峡を渡って住みついた。儲けが大きいことに気づいた商人たちは大挙して押し寄せ、中にアイヌを食いものにする輩が多発した。

アイヌは度々抗議したり戦いをいどみ、和睦や破れたりした。その中で上記のコシャマインの戦いで滅ぶ寸前の和人たちを救ったのが若狭からの武田信広だった。得意の騙しと陰謀で、和睦を申し出て、酒席でコシャマイン父子を殺し、その時に同行した諸部族の首長も血祭りにあげた。
戦国の騙しそのものを北海道に持ち込んだ信広は、安藤蛎崎家の女壻となり、以降アイヌにとって悲劇の大元となる。

信広は息子の光広、孫の義広、ひ孫の季広へとその騙し謀殺の家訓を伝えてゆく。

光広は父の教育よろしくで名門安藤氏を殺し乗っ取って、陰謀と裏切りと騙し人生を全うし、松前氏として君臨する。
1513年のシャカコウジの戦いで、シャカコウジ兄弟を巧みに館に呼び寄せて酒宴の席で宝物を与えつつ、すきを突いて騙討に及んだのである。
狭い松前の和人居留地を意のままに動かす基礎を作りあげると、当然類が友を呼び強かな強欲商人やあぶれ侍が集まってくる。

孫の義広は攻められ窮地に立つと、アイヌ首長タナサカシに賠償を渡すと嘘で呼び出て殺害した。1536年にはタナサカシの女壻・タリコナが敵討ちを計画していると知らせを受け、和睦を申し出酒を振る舞ってタリコナ夫妻を騙し血祭りにあげた。

ひ孫季広は、ハシタインとチコモタインと争っても、賜物を贈って仲良くした。
実のところ抜け目ない季広は秀吉から御朱印状をもらい、商いの独占権を獲得したからの懐柔であろう。御朱印には「和人がアイヌに理不尽を行えば、その和人を斬る」と記されていたのを、アイヌ語翻訳者には「アイヌが猛悪を行えば関白が数十万の兵を差し向ける」と狡猾に変えてお触れを出したのだった。
家康にもあれこれとりいって松前藩として松前を治めよと黒印状をせしめ、アイヌとの交易の独占権を得た。黒印状には「アイヌに対して道理にかなわぬ行為をしてゃならぬ」と明記されている。もちろん季広はアイヌへの通訳には虎の威を借りた逆の脅迫文面に変えている。
 


アイヌ諸部族の事情
記録がないため彼らの事情は明確ではないが、伝承や和人の記録からは何百年にもわたり慎ましく諸国と自由にまた選択肢の多い交易していた。狩猟採取民として自然や人を大事にすると言われていたが、反面部族間のいざこざが絶えなかったようである。釧路だけで128箇所ものチャシ(砦)が見つかっていることから推測される。

交易相手が狭まるにつれ、蝦夷地の物産は和人にしか売れなくなってくる。
和人の豪奢生活を見たり、米や漆器や鉄製品に頼る生活が続くとそれが当たり前になっていた。
現代でもどんな国といえど、一旦美味いものを食い快適なくらしに馴染むと昔には決して戻れない、そう人間の哀しい非可逆性質が全面に出てくる。
阪神大震災当時でも「今までどんなに贅沢していたか!」それを嫌というほど聞いたね

アイヌ交易は松前藩の独占とする旨がお触れされると、交易の条件がアイヌ側に極端に不利になってしまっただけでなく、松前藩は商場知行制(あきないばちぎょうせい)という制度によってアイヌ側が交易できる人物を限定し、アイヌ側がさらに不利になるような交易環境をつくりあげた。かたや商人は本州では米一俵は四斗だが、蝦夷ではずる賢く二斗に換算さしていた。酷いことに不作だとして米一俵は七から八升にまで激減させられて激怒を買った。
交易に応じないアイヌには子どもを人質に取って脅すなどの強硬策に及んだため、和人に対して積年の恨みや現状の不満は日増しに大きくなっていた。

よくいう真綿で首を絞められるように窮地に追いやられていったのだ。
時の政は上にはしっぽを振り、下には情け容赦もなく辛く当たって搾り取るからである。
弱体化すればするほど過酷を増すのが歴史である。
苛政は虎よりも猛なりはこのことである。

 

 

◆シャクシャインの戦い
、安藤一族が松前と名乗り大名になり、その庇護の下和人の強引な交渉や理不尽な取引が横行するようになる。和人(蝦夷へ渡った日本人)の搾取と蛮行に耐えかね、シャクシャインは遂に峻烈な蜂起の断を下すに至った----その背景は・・・

コタン(村)の人たちは侍相手の交易でさえ不利だったのに、あくどい近江商人銀次郎のような奴が次々とやって来たのでますます不利益を被る。 
侍相手なら親しみを込めて挨拶し合い、お互いの産物を贈り合う習わしがわずかでも残されていた。 
だが商人は人情より勘定。なにしろ蝦夷では穫れぬ米など本州での価格の四倍で売れるからやってくるのだ。漆器に至ってはボロの古食器を法外な値で売りつけ(交換)ていた。

その上彼らの企みは交易だけには止まってはいないのだ。 生活の元・鮭をとる場所の権利を買い取るもくろみがあって、それをされると生活がおおきく脅かされる。
 松前藩は商人から漁業二分料金(税)をかけて収入を図る。コタンの暮らしはますます苦しくなる。 皆欲に目がくらんでいるのだ。

「 コタンの人々の暮らしが栄えてこそ両者の良い間柄が保たれているのに、
侍も小商人も自分たちの目先の利益を追うことばかり目の色を変えて、
大切なことを忘れていた」と心はある和人は呟いた。鷹狩侍たちの一部だった。

さらに藩は 狭い松前地を押し広げて、広大な蝦夷地を支配下に置く計略も画策していた。高台から見渡しつつ広大な土地で和やかに暮らすコタンからいかに富を吸い上げるかであった。

 

◆当初はアイヌ民族内部での集団同士の小競り合いだった
当時、蝦夷地全域に住んでいたアイヌ民族は地域ごとに部族集団があったため、アイヌ民族間でも争いが起きていた。
東のメナシクル部族と その西に位置するシュムクル部族とは狩猟権をめぐる争いがあった。鮭や 熊、鶴などの猟場での小競り合いである。
メナシクルの首長はカモクタイン、シュムクルの首長はオニビシだった。
両部族は度々揉めて、仲直りしていた。これを行うのは藩で多くの贈り物を双方から得られるからで、小藩松前藩の漁夫の利政策であった。

シブチャリ以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ部族集団メナシクルと、シブチャリからシラオイにかけてのアイヌ部族集団であるシュムクルは、シブチャリ地方の漁猟権をめぐるいざこざを続けていた。
この東西の2部族の対立は、文献においては多くの死者が出たとされる1648年の戦いまで遡ることが出来るほど根深いものだった。

一方対和人では、自由交易が17世紀以降、幕藩体制が成立して幕府により対アイヌ交易権は松前藩が独占して他の大名には禁じられることとなった。アイヌ民族にとっては対和人交易の相手が松前藩のみとなったことを意味し和人との自由な交易が阻害されることとなっていた。
交易上の支障となることを恐れた松前藩が介入し,不当な交易によって自由が制限されてきたことに不満を持つアイヌの人びとと松前藩の戦争に発展したものである。

それにくわえて・・・


◆ゴールドラッシュ
そうした中、砂金のみならず大きな金塊が採れると分かって、本州などから金採り者が万人単位で押し寄せた。アイヌ部族の生活場所、鮭などが採れる河を荒らす。
河を荒らす砂金採りたちの欲に目がくらんだ自然破壊と、神から贈られた恵みの鮭やマスその他の産物を得られなくなるアイヌたちの河を守ろうとする対立もあった。
よく語られるのは金取り文四郎であり、松前藩アイヌたちの仲裁もかって出ていた。
仲裁の贈り物を双方から取れるし、最終的に自分の利益を得られるようにするということであった。

 


◆鷹の献上、鶴肉の献上、オットセイの精力剤献上、毛皮・蝦夷錦交易など
権力者の常として幕府は無理難題を押し付けてきて、最終末端のアイヌたちを苦しめ、争いの種をまいた。実直なアイヌほど手玉に取られ、労力も自由も富、戦力を剥ぎ取られてゆく姿は痛々しい。

折しもキリシタンの弾圧で島原の乱が発生した。
後の本には鷹侍・庄太夫シャクシャインの女壻になって登場するが、隠れキリシタンだとも噂されていた。また金採り助之烝もシャクシャインの女壻となって蜂起を勧めたという説もある。多くの流れ者には逃れてきた隠れキリシタンがいたという。

 

第二部へ続く