蘆
マルコが産まれた年、
鈴木大拙先生がかたる。
∞
禅による生活は単に道徳的だということ以上である。
道徳は束縛する。
禅はもっと広い自由な生活の領域に人を解放する。
道徳は創造的でない。
したがって道徳は単に道徳だけのものにすぎず、
それ以上であることはできないものだ。
禅による生活とは、(生活)そのままであるということ、
(生活が)そのままで完全であるということである。
それは常に自ら働きかけ、そのもてるものを与え、
決してそれ以外のものであろうとは
試みたり工夫したりしない。
禅に生きればいかに荒天であっても日々是好日である。
道徳は 善悪・正邪・徳不徳 などの諸観念によって常に自縄自縛となり、
これらの観念を超越することはできない。
もし超越すればそれはもはや道徳ではない。
本来道徳は自由、自立とはなりえぬものである。
けれども禅はいかなる観念にも束縛されることはない。
鳥の飛ぶように、
魚の泳ぐように、
百合の匂うように
自由なのである。
∞
まことにまことに、養眞そのものなのである。
道はただしくても、Goalは遥か~。
マルコ註: よし葦=蘆あし=葭
自由=みずからによることで、本当のじゆう
禅:人間精神の達しうる極限への道を示す
仙崖 茅ねずみ 「マルコよ、魚座だったな」 ↑ 家
<養眞とは、父からの遺言でもあり
友人達の創ってくれた戒名>