千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

老いの慟哭-2 老いゆく父上母上への贈り物は?  長文

 

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           活躍の果てに


ある大銀行の保険窓口で妙齢の行員がシクシク涙を流した。

保険の勧誘説明を受けていたとき突然のことだった。

 

「マルコはね、保険金残す必要ないんよ」とゆるりと申しわけなくいった。
「母しかおらんし、死んで残す人がいないんよなぁ。
 母上も一生懸命年取っても生きなあかんのよ」と口にしたとたん

行員「わたし、母が大好きだから、どんなに植物人間になっても
 生きていて欲しいの」と涙を急に流しはじめた。


マ「さよか、さよか、そうやろな・・・」
わたしはオロオロするしかなかった。

 


三宮地下駐車場での出来事もまだ鮮やかに憶えている。

 

懇意にしている歯医者さんに母上を連れて行って
その帰り自動車にゆっくりと乗せているときのことだった。

 

「このばか!一体何回いったらわかるの!!!」
それはすこうし離れた向かい側での自動車の横で発せられ
キンキンと響き渡ったののしりの絶叫だった。

 

どうやら状況からさっするに、車椅子に乗った老母を自動車に
乗せようとしているさ中に、怒りが爆発したのであろう。
娘さんらしき人が鬼の顔をしていた。

 

マルコの母上は耳が遠いから気づくこともなく、自動車にえっこらしょと
乗り込んでいた。耳が遠いことはよきことだねぇ。

そして、先ほどの銀行員の40年後が見えるようだ。

 


三十年ほど前に、ある老人施設の出来ごとも焼きついている。

 

知り合いの奥さんが倒れて老人施設にいるというので見舞に行った。
入口から入ったとたんのことだった。
窓からの陽を浴びて、車椅子に乗せられた5、6名の高齢者が
そこかしこにいるのが目に飛び込んできたのだ。

 

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              夢物語

その時の印象は強烈だった。なにしろ、ほとんどのご老人は
とけた餅のように力なく車椅子にとろけ込み、
みんなが一斉にマルコに視線を向けたからだ。


目が叫んでいた 
「たすけてぇ!そこのニイさん」「どうにかしてぇ!!!!」

 

       

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       ゴッホ  永遠の入り口にて

つい近頃、死を願われる老人の話しも聞いた。

 

マルコにふんだんな智慧をくれるあるお人が仲間内で会合を開いたという。
すると次第に親の介護の話になって、その大変さが話題の中心となったそうだ。

 

頭は惚けて体が生きている親の“そんなはずではなかった”長寿にあわて、
金の計算をしてえらいこっちゃ!と本音があとで出てきたそうだ。

 

その先に「はよう、死んでくれたらほっとする」などと
笑うことのできぬ本音が酒の入った仲間内から
ぽつんと出てくる始末だったとか。

 

          

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それが現実なのである。そうした現実を若い人は体験も少なく、
自分は元気だから先を体感や実感することは少ないだろう。


過去の延長での思慮のない感傷に身を任せ気楽に泣き崩れる先行きが
いずこに向かっているかも気づかないのだ。

 

 

まったく同じように、竹林亭に遊びに来た女の人は
菓子を差しだすマルコ手をみて「しわが寄ってる」と自分と比較していった。


また、くさいとかきたないとかいって、皮相な感覚印象をのべ
生き物として誰しもがたどる道に思いを馳せることのない見方に
がっかりを通りこして憐れさえ感じた。

 

 


それはさておき、マルコは何十年も前から父上母上といっている。

その意図は二つあって、一つは見返りをまったく求めぬ無私の慈愛を注いで下さる存在に
あるいは、身を削って子らや後進のために死に行く存在に、
キリストやゴータマのような崇高さを観るからだ。

 

自らを振り返って反省するけれど、自分中心に考えてしまう。

そうならないよう慎みと慚(ハズカシ)しさを持ち続けるため、
無私の慈愛を惜しげもなく降りそそいでくれる存在を一般化して、
ありがたみと我が身もとの憧れを抱くためである。

 

多くの父や母、先祖達、または今の社会で陰徳を積む人々。
さらには、社会の父上母上、宇宙の父上母上・・・・

 

私たちが無私の慈愛をふんだんにいただいたその人々に
どう向かい合うのか。その老いにどう対処するのか・・・
人それぞれで方法は70億通りある。

 

マルコは消去法で、老人施設のご老人のような
うつろな人生を送る老人にだけはしたくないと
三十年前に思ったのだ。

 

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人には死に時がある。
おしまれ、悲しまれ、よき思い出を紡ぎ
きっちりとした結び目を作ることが
無私の慈愛に対するお礼ではないかと感じている。

 

一時の自分勝手な感傷で、尊い人々を
人生のない悲惨な状況にだけは
おとしめてはならないように思うのだが。

 

 

そして欲張るならば、父上や母上がこの世でやりたいこと希望を
叶えるお手伝いをすることではないだろうか?

 

     ☆長生きではなくて善逝
      蟄居ではなくて希望を叶えて

           さし上げることだ☆

 

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