千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

生活がそこにある

             よう  未熟マルコ おれ巨大なまず  

宿舎の二階のベランダから通りを眺めると
生き生きと本物の生活が実感できる。

 

ある朝のこと・・・コココと鶏が騒ぎ、羽をばたつかせてくたばる。

 

おっちゃんは慣れた手つきで、締めた鶏をじょうろ型の鉄柵に頭から突っ込んで血を出す。横に小型の湯釜があって二、三匹まとめて羽ごと茹でる。しばらくして取り出し羽をむしって、あっという間に裸にする。その手際のよさは無駄なく洗練されてる。かごにさっきうごめいていた生き物が、裸のきれいな鶏肉になってる。

 

それは一メートル先のおばちゃんに渡され、大木を横切りした丸っこいまな板に横になると、四角の包丁で小気味よい音のもと、売り物になる塊に分けられてしまう。放り投げられた鶏肉は店の台に綺麗に並ぶのだ。


バイクで若奥さん達が次々に買いに来る。乗ったままで、金を払ったら袋を受け取り家路へ急ぐ。時には一匹まるごと買うおばちゃんもいる。大家族かパーティーかなと想像する。

 

昼前になると、さばき終えたおっちゃんは店を閉じて、なんと血が流れていた地面にレストランが開店して湯気が立ち上ってる。おいしい匂いが漂うとお客が訪れて風呂椅子に座ってフォーガー(鶏麺)をおいしそうに食べてる。おばちゃんの鶏肉ショップでは引き続き客に愛想を振りまく。

 

                  黄色ウナギ

同じようにたらいに泳ぐ50-60センチほどの大きな魚を、客の要望に応じて刀でバッサバッサ切っては袋に入れ、切り刻んでは店頭に並べる。ウナギは石畳にはい逃げている。スッポンは網の中でうごめく。さすがに豚はおらず、豚肉となった塊をいろんな大きさで並べ売りさばいたり、グルグルと焼き肉にしていい匂いを振りまいている。

 

 

 

覚えきれぬほど多種の野菜もあちこちに山積みで、売り切れたらその場から去って別の売り子が陣取る。豆腐屋は揚げ豆腐までつくったり、豆乳をスイーツとしても売る。

 

お上品なスーパーマーケットにはない、たくましい生活がそこにある。

          おいら スッポン

 

 

ニワトリを羽ばたかぬよう両手でぎゅっと握ったことは小さな時にあった。
ひよこを飼っていたとき、掌にのせ両掌で包んだりした。
そこにはほんのりした温ったかみと、息遣いや動悸が掌に伝わってきた。

 

             ワシはこの家の目覚まし

それが生きている証だな
なんだか仲間感があるのだ