食事係の僧を典座という。
正確には“僧や仏や祖師への供膳をつかさどる”役職だ。
食事することも修行だけれど、食事をつくる側として修行する
重要職なのだ。
若き日の道元は、老典座に日々の営みが皆修行だと気づかされて
悟ったといわれる。
その典座の僧達を目の当たりにした。
きびきび、むだなく的確に盛りつけ給仕する。
経の唱和がすんで五観の偈を唱えたら、すいっと食事に移る。
野菜は山盛りあるので、減らして欲しいときは皿を引き寄せずに
そのままにしてしておくと、すーっと来て減らしてくれる。
まるで孫悟空が音もなく、きんとん雲に乗ってくるようだね。
もっと食べたい場合、その器を元の場所におくと、すーっと係が来て
ついでくれる。皿に数品あってある一つのおかずの追加希望なら
希望するおかずの端くれを置いて出すと、見事にそれだけ
追加してくれるのである。
減らす、追加するもみごとなら、器のひき方にも感心する。
食事を終えて、しずかに器を机の端に戻すと、
ご飯椀をつぎつぎ重ねて足早に引き上げる
いままで器が割れた音がしたことがない
20、30分の内に終わる、食事修行は何事もなかったように
さっぱり終わるのである。
食した後のきれいさと、引きのきれいさは
時を洗練した朝ご飯である
もちろん調理係や仕入れも同様なのだろう。
ただただみごと、お見事!!
静座の禅もあれば、動の禅もあるのだね