千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

 変人寄人さあ大変 <阪神大震災の贈り物>


遙か昔のこととなった“阪神大震災
今日は駅前で災害保存乾パンをもらってきて、食べながら日記している。
           

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21年前の17日、突然の揺れで飛び起きてた。
ガラスの破片だらけの部屋で何が起きた?!とオタオタ走り回った。
マンションの部屋に閉じ込められた人が沢山いて、              ドアのこじ開けを手伝った。
近くのお屋敷が燃えて、バケツリレーで消火も手伝った。
近くのマンションでは一階と2階がなくなっていたし、            繁華街では大きなビルが横倒しになっていた。                二階に住んでいたマルコは、よくぞ生きていたという実感があった。

浜辺の方では・建て売り住宅の新しいのがドミノ倒しで倒壊し、

パジャマ姿のお年寄りがたたずんでいた。
四十センチはあろうかと思われる亀裂の断層に腰かけて、

さてどうしたものかと思案したがなにも思い浮かばなかった。
      

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古いスクーターで繁華街に出て、弟の医院を手助けする。
多くのけが人や患者をこなすには水がいる。だから水確保に専念した。
探し回ると太い水道管を見張っている市の職員がいたので、これを幸いと
「医院での水がいるので下さい」と頼むと、
「市の許可がいるので、申請書を出して・・」というので、
「あっち向いときなはれ!、この緊急時に何を言っとる!」と勝手に水を入れ物に満たして持ち運んだ。

スクータの運転はきわめて危険だった。普段は前後左右を見る。
この時ばかりは加えて上と下に注意を払い、更にどこからか崩れてきたり落下物が飛んできたりするのを除けねばならない。
ちっさな頃、野山で飛び回っていた危険回避能力が役だったのだ。 


青天の霹靂だったこの地震体験で、“なんとでも生きれる”という、

ある意味他力本願的、楽観的な人生観を得ることとなった。
前晩入った風呂の水を飲み、硬い餅を囓り、ヘルメットを被って眠りに就く。
とくに友人達や、無名の人々の温かな支援と見守りは希望であり、

それを胸にあとはなすがままに・・・であった。

かたや、いかに恵みの中で生きてきたかが分かり、

贅沢なことを減らすことになったのだ。
いまだに続けているので、けちと思われている。