千 年 の み ち

“渡り鳥” が描く今と未来               たちばなマルコ

縄文の平和と滅亡調査-27 <英勇1-シャクシャイン第一部/2>

<私は歴史家でも考古学者でもありません。
 目的は学問ではなく、千年構想に活かすための視点から綴っています>
                 


アイヌの歴史記録はない。伝承や歌による語り継ぎが主であり
伝承者によって微妙に違うところもあるという。

 

記録は和人(日本人)や西洋の宣教師、或いは大陸の中国朝鮮・山丹などの国によるものである。歴史は生き残り強者の都合と立場から書かれたものなので、アイヌの言い分はほとんど無視されていることに注意しなくてはならない。

 

さて---歴史は形を変えつつ螺旋階段のように繰り返す---


アイヌ民族の歴史における,和人との大きな戦いは3つある。
    コシャマインの戦い(長禄元 1457年,
    シャクシャインの戦い(寛文 1669年),
    クナシリ・メシリの戦い(寛政元 1789年)である。
この中で二つ目のシャクシャインを英勇として取り上げた。


第一部は戦いが起きるまでの背景
第二部は戦いそのものとマルコの得たもの  を記録する

 

 

+++第一部++++++++++++++++++++++


この戦いに先立つこと二百年前にコシャマインの戦い(長禄元 1457年)があった。
コシャマインの戦い
応仁の乱のちょうど10年前康正3年(1457)、客であるアイヌ青年が小刀(マキリ)を和人(日本本州人)鍛冶屋に注文した。ところが品質と値の折り合いがつかず口論に発展、怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの青年を刺殺した。これを端に怒ったアイヌ諸部族が北海道渡島半島東部の首長コシャマイン(胡奢魔犬、コサマイヌとも呼ばれる)の元に集結率いられ、和人の圧迫に対して蜂起した戦い。
12あった和人の館の10を占領して和人を大いに苦戦させたが、コシャマインが騙し殺されたためまもなく鎮圧され、和人の支配が強化された。
コシャマインの当て字を胡奢魔犬とした和人の奢りを観ることができる。

その後、アイヌたちは北方の異民族や中国大陸、日本本州などとも交易をしながら忍従適応しつつ民族の文化を伝承してきた。

二百年の時を経るにつれ新興の松前藩アイヌの人々の軋轢が積み重なってきた。

 

シャクシャインの戦いは
寛文9年(1669)松前氏の収奪に対して、アイヌの首長シャクシャインが全蝦夷(えぞ)地のアイヌを糾合し蜂起した戦いであった。本州では寛文蝦夷蜂起と呼ばれた。

 

 

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◆若きシャクシャイン
シャクシインの若き頃の記録がないらしい。どうやらシャクシャインは、狩猟で獲ったものとか戦利品を気前よくみんなに分け与えたそうだ。そうした事もあって、道東地区で名を挙げて諸部族のリーダー的な立場になったようだ。
部族の副首長だった時、道西部族に首長が殺されて首長のあとを継いだ。
多くの部族や民族、諸事情が複雑に入り乱れ、大きな戦争へと雪崩落ちていった。

和人の記録からすると、丁度本州では戦国時代を経て秀吉・家康時代のことであった。
北海の道南の半島に小さな松前藩が誕生した。昔からここはアイヌ交易地で、最初は友好的、そして商人や侍の欲望のもと、支配力を強めていた。

 

 

松前藩の事情
鎌倉時代後期、管領から追われた津軽の豪族安藤氏が北海道へ渡り、海産資源をアイヌに求め、代わりに米や酒・鉄製品を交換し生業とした。米が取れないからだ。また人気の高い毛皮や海産物を求めて、多くの和人たちも海峡を渡って住みついた。儲けが大きいことに気づいた商人たちは大挙して押し寄せ、中にアイヌを食いものにする輩が多発した。

アイヌは度々抗議したり戦いをいどみ、和睦や破れたりした。その中で上記のコシャマインの戦いで滅ぶ寸前の和人たちを救ったのが若狭からの武田信広だった。得意の騙しと陰謀で、和睦を申し出て、酒席でコシャマイン父子を殺し、その時に同行した諸部族の首長も血祭りにあげた。
戦国の騙しそのものを北海道に持ち込んだ信広は、安藤蛎崎家の女壻となり、以降アイヌにとって悲劇の大元となる。

信広は息子の光広、孫の義広、ひ孫の季広へとその騙し謀殺の家訓を伝えてゆく。

光広は父の教育よろしくで名門安藤氏を殺し乗っ取って、陰謀と裏切りと騙し人生を全うし、松前氏として君臨する。
1513年のシャカコウジの戦いで、シャカコウジ兄弟を巧みに館に呼び寄せて酒宴の席で宝物を与えつつ、すきを突いて騙討に及んだのである。
狭い松前の和人居留地を意のままに動かす基礎を作りあげると、当然類が友を呼び強かな強欲商人やあぶれ侍が集まってくる。

孫の義広は攻められ窮地に立つと、アイヌ首長タナサカシに賠償を渡すと嘘で呼び出て殺害した。1536年にはタナサカシの女壻・タリコナが敵討ちを計画していると知らせを受け、和睦を申し出酒を振る舞ってタリコナ夫妻を騙し血祭りにあげた。

ひ孫季広は、ハシタインとチコモタインと争っても、賜物を贈って仲良くした。
実のところ抜け目ない季広は秀吉から御朱印状をもらい、商いの独占権を獲得したからの懐柔であろう。御朱印には「和人がアイヌに理不尽を行えば、その和人を斬る」と記されていたのを、アイヌ語翻訳者には「アイヌが猛悪を行えば関白が数十万の兵を差し向ける」と狡猾に変えてお触れを出したのだった。
家康にもあれこれとりいって松前藩として松前を治めよと黒印状をせしめ、アイヌとの交易の独占権を得た。黒印状には「アイヌに対して道理にかなわぬ行為をしてゃならぬ」と明記されている。もちろん季広はアイヌへの通訳には虎の威を借りた逆の脅迫文面に変えている。
 


アイヌ諸部族の事情
記録がないため彼らの事情は明確ではないが、伝承や和人の記録からは何百年にもわたり慎ましく諸国と自由にまた選択肢の多い交易していた。狩猟採取民として自然や人を大事にすると言われていたが、反面部族間のいざこざが絶えなかったようである。釧路だけで128箇所ものチャシ(砦)が見つかっていることから推測される。

交易相手が狭まるにつれ、蝦夷地の物産は和人にしか売れなくなってくる。
和人の豪奢生活を見たり、米や漆器や鉄製品に頼る生活が続くとそれが当たり前になっていた。
現代でもどんな国といえど、一旦美味いものを食い快適なくらしに馴染むと昔には決して戻れない、そう人間の哀しい非可逆性質が全面に出てくる。
阪神大震災当時でも「今までどんなに贅沢していたか!」それを嫌というほど聞いたね

アイヌ交易は松前藩の独占とする旨がお触れされると、交易の条件がアイヌ側に極端に不利になってしまっただけでなく、松前藩は商場知行制(あきないばちぎょうせい)という制度によってアイヌ側が交易できる人物を限定し、アイヌ側がさらに不利になるような交易環境をつくりあげた。かたや商人は本州では米一俵は四斗だが、蝦夷ではずる賢く二斗に換算さしていた。酷いことに不作だとして米一俵は七から八升にまで激減させられて激怒を買った。
交易に応じないアイヌには子どもを人質に取って脅すなどの強硬策に及んだため、和人に対して積年の恨みや現状の不満は日増しに大きくなっていた。

よくいう真綿で首を絞められるように窮地に追いやられていったのだ。
時の政は上にはしっぽを振り、下には情け容赦もなく辛く当たって搾り取るからである。
弱体化すればするほど過酷を増すのが歴史である。
苛政は虎よりも猛なりはこのことである。

 

 

◆シャクシャインの戦い
、安藤一族が松前と名乗り大名になり、その庇護の下和人の強引な交渉や理不尽な取引が横行するようになる。和人(蝦夷へ渡った日本人)の搾取と蛮行に耐えかね、シャクシャインは遂に峻烈な蜂起の断を下すに至った----その背景は・・・

コタン(村)の人たちは侍相手の交易でさえ不利だったのに、あくどい近江商人銀次郎のような奴が次々とやって来たのでますます不利益を被る。 
侍相手なら親しみを込めて挨拶し合い、お互いの産物を贈り合う習わしがわずかでも残されていた。 
だが商人は人情より勘定。なにしろ蝦夷では穫れぬ米など本州での価格の四倍で売れるからやってくるのだ。漆器に至ってはボロの古食器を法外な値で売りつけ(交換)ていた。

その上彼らの企みは交易だけには止まってはいないのだ。 生活の元・鮭をとる場所の権利を買い取るもくろみがあって、それをされると生活がおおきく脅かされる。
 松前藩は商人から漁業二分料金(税)をかけて収入を図る。コタンの暮らしはますます苦しくなる。 皆欲に目がくらんでいるのだ。

「 コタンの人々の暮らしが栄えてこそ両者の良い間柄が保たれているのに、
侍も小商人も自分たちの目先の利益を追うことばかり目の色を変えて、
大切なことを忘れていた」と心はある和人は呟いた。鷹狩侍たちの一部だった。

さらに藩は 狭い松前地を押し広げて、広大な蝦夷地を支配下に置く計略も画策していた。高台から見渡しつつ広大な土地で和やかに暮らすコタンからいかに富を吸い上げるかであった。

 

◆当初はアイヌ民族内部での集団同士の小競り合いだった
当時、蝦夷地全域に住んでいたアイヌ民族は地域ごとに部族集団があったため、アイヌ民族間でも争いが起きていた。
東のメナシクル部族と その西に位置するシュムクル部族とは狩猟権をめぐる争いがあった。鮭や 熊、鶴などの猟場での小競り合いである。
メナシクルの首長はカモクタイン、シュムクルの首長はオニビシだった。
両部族は度々揉めて、仲直りしていた。これを行うのは藩で多くの贈り物を双方から得られるからで、小藩松前藩の漁夫の利政策であった。

シブチャリ以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ部族集団メナシクルと、シブチャリからシラオイにかけてのアイヌ部族集団であるシュムクルは、シブチャリ地方の漁猟権をめぐるいざこざを続けていた。
この東西の2部族の対立は、文献においては多くの死者が出たとされる1648年の戦いまで遡ることが出来るほど根深いものだった。

一方対和人では、自由交易が17世紀以降、幕藩体制が成立して幕府により対アイヌ交易権は松前藩が独占して他の大名には禁じられることとなった。アイヌ民族にとっては対和人交易の相手が松前藩のみとなったことを意味し和人との自由な交易が阻害されることとなっていた。
交易上の支障となることを恐れた松前藩が介入し,不当な交易によって自由が制限されてきたことに不満を持つアイヌの人びとと松前藩の戦争に発展したものである。

それにくわえて・・・


◆ゴールドラッシュ
そうした中、砂金のみならず大きな金塊が採れると分かって、本州などから金採り者が万人単位で押し寄せた。アイヌ部族の生活場所、鮭などが採れる河を荒らす。
河を荒らす砂金採りたちの欲に目がくらんだ自然破壊と、神から贈られた恵みの鮭やマスその他の産物を得られなくなるアイヌたちの河を守ろうとする対立もあった。
よく語られるのは金取り文四郎であり、松前藩アイヌたちの仲裁もかって出ていた。
仲裁の贈り物を双方から取れるし、最終的に自分の利益を得られるようにするということであった。

 


◆鷹の献上、鶴肉の献上、オットセイの精力剤献上、毛皮・蝦夷錦交易など
権力者の常として幕府は無理難題を押し付けてきて、最終末端のアイヌたちを苦しめ、争いの種をまいた。実直なアイヌほど手玉に取られ、労力も自由も富、戦力を剥ぎ取られてゆく姿は痛々しい。

折しもキリシタンの弾圧で島原の乱が発生した。
後の本には鷹侍・庄太夫シャクシャインの女壻になって登場するが、隠れキリシタンだとも噂されていた。また金採り助之烝もシャクシャインの女壻となって蜂起を勧めたという説もある。多くの流れ者には逃れてきた隠れキリシタンがいたという。

 

第二部へ続く

縄文の平和と滅亡調査-26 <英勇-いでよ英勇たち>


あらゆることで縄文の考えを引き継いでいたアイヌ
富の蓄積で絶大な権力を持ち出した弥生人たちに押されてきた中、
様々な試行錯誤と融和の工夫がされた。

 

基本的に武器を他に求めるしかなかったアイヌ
衰退せざるを得なかった。

 

 

マルコの疑問は、そうした狡猾でしたたかな新勢力に対抗できず、
多くの富を奪われた縄文の名残を持ったアイヌの人民が
なぜ雄々しく立ち向かわなかったのか?
遺伝子的にもなんら普通人と変わらなかった人々が
征服され衰退したのか知りたかった。

 

 

調べてゆくと、アイヌは弱者ではなかった。

ただ生まれたときから融和的な社会・自然環境に馴染んでいたので、
商売の狡猾な策略やだましへの抵抗力が少なかった。
また武力の差が歴然とあった。


結果、騙され、富や生活の大地を奪われ続けた。

一方、アイヌは大昔他国へ傭兵として大活躍したし、
英雄もたくさん出ていた。
つまるところ、アメリカインディアンたちと同じであった。


しばらく、こうした英雄たちの短編話を記す。

 

それは千年構想で仲間たちが富を得ても、詐欺師たちや貪欲者達に
志金や富を奪われることがないようにするためだ。

 

 

独断で、五人の例を採り上げてみる

1.シャクシャイン    対日本国    悲劇
2.ウイリアム・ウオレス     対イングランド国    悲劇+遺志が継がれ成果
3.北条時宗                      対元帝国               成果+日本文化創造と武士道へ
4.ファ・ムーラン(花木蘭)    対外敵(突厥)       成果+孝道
5.范蠡                        対呉国など           大正解

 

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        小国・弱国・弱町・弱者から本物の英勇が

 

 

 

 

 

縄文の平和と滅亡調査-25 <アイヌ同士の戦い>

羅臼町郷土資料館学芸員天方氏よりの情報  

+++
狩猟採集生活でも保存食はあった。
弥生時代になって米など蓄えられるようになった。
これから階層、支配、格差が出てくる。
擦文サツモン文化、オホーツク文化の次にアイヌ文化が出てくる。しかし文化的なつながりはない。


A母体は続縄文文化・本州では土師器を元にした青縄文文化
B擦文文化7世紀から12、3世紀オホーツク文化オホーツク海沿岸でサハリンから来た。
縄文からアイヌの間はかなり期間がある。
Cアイヌ文化は13世紀頃から始まっている。

 


アイヌ同士の戦いはあった。「アイヌ闘争伝承」にある。


アイヌの文化
物質文化:アイヌは石器や土器は使わない。平地式の家
精神文化:代表的なものとしてイオマンテの儀式。仔ぐまの飼育型熊送り。これは擦文文化にはない。神の国で神は人間の姿をしているが、熊の格好をしてやってくる。熊の肉を神の国から送ってくる。片や人間の国がある。
お墓の作り方:東夷の方向、埋葬形態もアイヌ的で、家でさえ焼却して神の国に送る儀式がある。実用ではない。

*こうした内容は羅臼町のホームページにある


◎アイヌの抵抗:寛永元年和人の圧政に耐えかねたアイヌが抗議しその五つのチャシを築いて抵抗した


--羅臼町HPより--
オホーツク文化の至宝~国指定重要文化財「北海道松法川北岸遺跡出土品」
7~8世紀頃のオホーツク文化の集落跡より出土した260点が指定され、オホーツク文化を代表する出土品となっています。アイヌ文化の精神文化に影響を与えたことが窺える貴重な資料です。
・北と南の文化の融合トビニタイ文化
トビニタイは羅臼町にある海岸町の旧字名です。北のオホーツク文化と南の擦文文化が接触して生まれたトビニタイ文化の出土品を豊富に展示しています。

・翠玉の輝き羅臼ひかりごけ
国内最大級のヒカリゴケ自生地としてマッカウス洞窟(羅臼町共栄町)が北海道天然記念物に指定されていますが、現在洞窟は岩盤崩落の可能性があることから立ち入り禁止となっています。館内でヒカリゴケの生体展示を行っています。

・『知床旅情』の誕生
知床ブームのきっかけとなった知床旅情。その誕生には森繁久彌氏と羅臼村民の物語があります。

・知床の動物たち
世界自然遺産知床、ここで生きる動植物の剥製や標本、そして模型を数多く展示しています。知床を代表するヒグマやシカ、オジロワシオオワシシマフクロウなどの剥製の他、クジラ・イルカの模型は圧巻です。
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◆争いや戦争は、主に富の奪い合いから来る。
よく言われることだが、彼の十字軍戦争でも宗教正義の戦いの裏に土地や富の収奪があった(あぶれ次男三男による東ヨーロッパへの東方植民)。1228年から始まった第5回の十字軍を率いたフリードリヒ2世は、度々十字軍の進行を退けてきたアイユーブ朝のスルタン、アル・カーミルと粘り強く外交交渉し互いを理解し、キリスト教イスラームエルサレムで平和共存する道筋を作った。ところが相手から奪うものがなかったのでともに厳しく非難されたのだ。人々は基本的に欲望で動いている。

 

また、富の蓄積が大きいほど魅力的だから、貪欲な人間はあれこれ理屈をこねて
大々的でおおきな奪い合い騒ぎを起こす。

 

珠をいだきて、禍を呼ぶのである。

 

 

縄文の平和と滅亡調査-24 <抑圧の系譜>

 

 

羅臼100年史より p77~  


アイヌの持ち物ははなはだ数少ない。 
家屋や衣・粗末な装飾品・船・武器・単純な家具調理道具である。


アイヌたちは小部落をなして国とか郡にあたる言葉がない。
血族を中心とした小集団をなし、資源を求めて点々と居を変えた。
血族以外に他の集団と混合することもあった。


・集団の首長は乙名(おとな)と呼んで村長を意味する。


松浦武四郎知床半島探検:幕末の頃
死を覚悟していたため遺言を書いて出発。
松浦藩の小役人たちがアイヌたちにどんな非道なことをしたかも記録している。


「和人の非道な仕打ち。海別ウナベツに船で上陸。


腰が二重になるほど曲がりし爺婆や見る影もなく破れてただ肩にかかるだけのアッシを着て、いかにも菜色をしている病人等はつえに助り、男や女が潮干にあさりける。みんなより来たりて、その理由を聞くに、舎利・アバシリ両所にては女は十六、七歳になり、夫を持つべき時に至れば、国後島へやられ、諸国より入り来たる漁者、船方のため自由に取り扱わらる。男子は妻を娶る年に成れば、その年盛りを百里以外の離島に過ごすこと由、ついに生涯妻を娶ることなく暮らす者多く、男女共種々の病にて病者となれば、働稼なる間は五年十年故郷に帰ることをなし難し。夫婦にて彼の地にやられる時は夫を遠き漁場へ遣わし、妻は会所の番人稼(共に和人)の慰み者とされ、いつまでも離れ置かるる。それを否めば辛き目に合うがゆえに、ただ泣泣く日々を送ること也。

 

このごとく無道の使い方に合うがゆえに、寛政中は二千余り有したが、今は半減になりけり。・・・・・日々の食なく、潮の干を待ち小貝を拾い、満ちれば野山に入って草の根を掘りて、つらき命をつなぐとぞ聞く。その憐さましければ、我らが蓄えの糧米をいささかづつ分け与えたり。」

 

 

同様なことが、松浦武四郎の故郷・三重県でも詳細に記されている。

www.pref.mie.lg.jp

 

同じアジア人であるにも関わらず、人は弱みに付け込むと
極悪非道をいとも簡単に行うのだ。

千年構想に然と記すべきことでありましょう。

 

休憩室:最後でもいいなぁ!素晴らしい宴

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        ラスト:やえむぐら



急冷だ、暑さの後だけに一際寒い 秋の豊穣神よこんにちは

 

朝早く友からふっくらした見事な丹波黒枝豆が届いた。 
個室に入っている8時半頃で郵便屋さんを待たせたな。
独り身には恐れ多いできなので三つに分けた。

 

自治会長さんおはよう、黒枝豆どうぞ、焼酎のおつまみにもってこい」
小豆を茹でているときだったが、袋の中身を見て嬉しそうに
「オオ・マルコ、あんやと」

 

すぐ近くの大家さんの所にも黒枝豆を届けた。
「 じい様、届いたばかりの丹波黒豆、どうぞ味わいを」
大雪でつるはしを持って雪かきをした時腰を痛めたじい様は
近頃足元不自由になって四足の杖をつきつき出てきた。

 

「マルコこないだは北海道土産うまかった。
オヤ丹波豆さん!珍しいものあんやとぅ」
吾が亡き父上の10歳年下だが耳が大層大きく、
そのせいかよく聞こえ目も頭もしっかりしている。

 

昔のおもろい話をあれこれしてくれた後のたまわく
「歳はとりとうないなぁ」 マルコは深く頷いた。

 

 

マルコが花壇のニンジンを抜いて洗っていると
朝釣りに行った知り合いが刺身を持ってきてくれた。

 

二種類で一つはあこう=キジハタ、もう一つは

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金目=チカメキントキという魚らしい

綺麗な短冊にしてある。

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 ともが研いだよく切れる刺身包丁でスイスイと切っての昼ご飯はごちそうだ。
これも頂いた大きなあきあかりのじゃがいもで作った芋団子、
到着の黒枝豆、プランターと太陽が作ってくれた新鮮なわさび菜、
コロコロ転がっていた梅で作った梅酒、それにとれとれの刺身

 

竹林を眺めつつの楽しい宴が始まった。
 ウイィ~~

 

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 縄文の平和と滅亡調査-22 <交易ではなく贈り物の交換>

コツコツ読みすすめた中での抜粋です。

羅臼町史の第1巻


・ページ30:その昔羅臼はそうそうたる原始林に覆われ、夏直後の連なる知床山脈より流れ出す清冽な水が大小の滝となり河川となりて海に注いでいた。 山谷や沼沢には熊、鹿が横行し、狩猟の豊かな天然の宝庫であるばかりか、河川にはサケ・マスの大群れが遡り、海には豊富な魚群に恵まれていたであろうし先住民族の多くは河口にコタン(部落)を形成した。 

 


・ページ32:日本の歴史に登場するのは西暦658年およそ1300年ほど前のことである。 当時この大きな島は蝦夷と言われていた。 


・生活:最も古い文献西暦1618年キリスト教布教の調査をしたイタリア人シロラモ・デ・アンジェリスはこう記している。

 

蝦夷には将軍のようなその國全体を治め数万の民が服従する統治者もいない。日本の国にあるようなその国を分割している特殊な大名といったものもない。もし蝦夷が韃靼に合併されていたりあるいはこれに隣接していたとすれば、このような統治者というものについて例え属していないとしても少なくても幾分かは知るところがあったであろう。 ところが江戸では各人が単に自己の家の主人であるか、せいぜい少人数の使用人の主人でしかなく、しかも誰もが他の支配者のいることなどは認めていないし、また他の国にそうした統治者がいることも知らないのである。 それでこれらの事を考えると蝦夷という国はあらゆるたここから分離されておりこれらとは何らの関係も持っていないことが自分には明らかになった」と報告している。

今から350年ばかり前でさえ蝦夷地のアイヌ人の間に統治とか支配ということばかりか、その言葉すらなくまったくなく、人類の原始のあけぼのを感じる。 無政府的な自由天地の社会が形成されていたと見ることができる。


 このアイヌ人の生活している地域がいわゆるコタンで、コタンとは今日ではほとんど部落というように訳されているが、正しくは国あるいは世界という広い意味を持ち、アイヌの家のある所を持ってコタンとされ、多数の集落を形成しているところはもちろん、たとえ一戸ないしは二戸よりない部落も全てコタンであった。

 


・すなわち統治者のない社会において、一戸の家はがあればそこに住むアイヌ人の国であり世界であるのは当然で従ってアイヌ民族のコタンとは近い血のつながりをもって結ばれた同族の集団社会であった。

 


・しかも前述のような自由社会ができたということはそもそもアイヌ民族は古来から漁狩猟民族として発展し、農耕民族のように一定の土地に定着することがなく夏は“夏のコタン”と言って河口や海浜や漁労の幸を求め、冬は“冬のコタン”と言って産量の多い山に入って生活するといういわゆる遊牧民族として常に豊かな自然環境を追って移動する自由を持っていた。その分配については今日の釧路のアイヌの子孫によってかろうじて伝承されているペカンべ祭り(菱の実祭り)の原型に見られるように山や海、河沼でえられた獲物は全てを端に持ち帰り船べりを叩いて合図して分け合うと言う原始的な共産生活を営んでいたことが想像される。

 


・しかしながらこのような生活の中でも常に起きる天変地異やあるいは不時の災害疾病はあった。 それは科学的な知識の乏しい彼らにとってはまさに不可抗力の出来事として、見えざる力に対する恐怖は自ずと信仰関連に結びつき他の未開社会の場合と同じように呪術的な行事を行うシャーマニズムへの発展段階を示している。 そしてそれらの行事をつかさどるものはその集団社会における長老、すなわち族長の手に握られ、しかも1人で災害や疾病に限らず豊漁祈願や感謝祭などの催事も行う。また住民の紛争、犯罪の裁定、後に至っては他の集団との争い解決や生産の識者から交易の代表者にも当たるようになった。これがいわゆる首長である。首長はあながち住民の統治者ではなく平常はコタンにおいて他の人々と何ら変わることなくともに狩猟に携わり、ただ何かことがあれば裁者となり指揮者となり代表者となる人であった。

 

神からの贈り物
アイヌには文字がなく文献などによることができないため、過去の文化や歴史・生活を知ることは極めて困難である。クマ祭りなどのアイヌ民族の宗教観念の中に古い過去の社会における経済的な歴史の背景を物語っているとしている。熊祭りにおける信仰観念は「神の国で神は普段人間と全く同じ姿で人間と変わらない生活をしている。この神が時を定めてアイヌのコタンを訪れるが、そのとき神は特別な服装を身につけるのであって、山の神は熊の毛皮を身につける。

こうして神がコタンを訪れるのであるが、決して手ぶらで来ることはなく、土産に熊の肉を背負ってくるので、アイヌは大きな肥えたクマをシケカムイ(荷物を背負った神様)などと言って大いに尊敬するのである。山の神様はこのように熊の皮を着て熊の肉を背負って--いわゆるお土産の食料である熊の肉を熊の皮の風呂敷に包んで背負い--アイヌコタンの背後の山の上に降り立ち、そこで首長の出迎えを受けてお土産の荷物である熊の肉の風呂敷包みを与えその本来の霊的な姿に替えるのである。

熊が人間に狩り殺されることをマラプトネと言うが、それは山の神がはるばる背負ってきたお土産である熊の肉をそっくりそのまま人間に与えることによって(つまりクマが死ぬことによって)、山の神は熊の肉体から解放されその本来の霊的な姿に立ち返り首長の家のお客さんになるという考え方である。

そしてこの首長の家の賓客となった山の神は、そこで数日間滞在し飲めや歌えの歓迎宴を受け首長からたくさんの酒やシトキだんご、イナウ(木幣)などを頂戴してまたはるばる山の上の神の国に帰ってゆく。

神の国に帰ると部下の神々を集めてアイヌのコタンからもらった土産を分け与え、珍しいコタンの見聞を語り聞かせ盛大な宴会を開き、神々の世界での顔を一層良くするのである。


アイヌの首長はかねて稼ぎ貯めてあった毛皮やその他を背負って和人の所に行く。 和人の村に着くと背負ってきた毛皮やその他の品物お土産物として差し出し、和人の家のお客となりそこで数日滞在し飲めや歌えの大歓待を受ける。そして和人からは米や酒やタバコその他いろいろの品物をお土産に貰いはるばる来た道を戻ってコタンに帰るのである。

コタンへ帰ると彼は部落の人々を集め盛大な宴会を開き、和人の村で見聞した珍しいことどもを語り聞かせお土産の品々を一同に分け与え、コタンでの周知の敬意を一層強めるのである。 このような交易の風習は和人や異民族との間に行われる以前から同族の間にも行われていた証左であると思われる。

 

               +++++++++++++++++++

アジアを遍歴して気づいた『分かち合い』は表面的には共通だけれど、アイヌの人々は神をそこに見ている。現代人は神がなくて金を見て崇める。

 

 

 縄文の平和と滅亡調査-22 <都市の空気詐欺商売>


地方へ行くと嬉しいことがある。
ほとんどのものがどっしりしている。

 

空気で膨らませたすかすかスナック   パス!
500g入っていた容器に400gにじわじわ減らしたヨーグルト パス!
小口化してさも便利で多く見せかけ商品 フン!
空気入袋にふわふわに膨らませたクロワッサン パス!
中にたどり着くまで五回剥ぐ土産 フン!
立派な箱にコロンと一つ入った高級菓子 フン!
高床式弁当 パス!
柔らかさを通り越したふわふわ・ふにゃふにゃ乳幼児的品 パス!
脂をかわされる高級黒毛 毒薬だ!

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     森永も雪印も・・・・・500g→450g→今400g→10? だまくらし商売

        砂糖の小袋も無くなったよ いずれ会社もね

 

あの手この手で人をだまくらかす商売だ だまされまへん!

何が持続可能-SDGsかいなぁ

 

 

マルコはいつも重さで買う

縄文の平和と滅亡調査-21 <“のんびりの素”売ります・タダ>

ガランとした羅臼を歩いていて立ち話した76歳の古老から聞いた話:
このじいさまの祖父や祖母は国後の出である。
そのままメモした---



・熊を99頭仕留めると、100頭目にクマに殺される。道徳というわけではないけれどもとても神秘的なものだと思っている。


・ 海がしけるとアイヌの人たちは喜ぶという。 これは魚を捕りすぎたりしないということではないかと想像する。


ニジマスで川が真っ赤に染まる。 ラッコの毛は一方向だけ手触りが良くなるのではなくどっちにも毛が倒れて手触りがいいんだよ。


・ 阿寒湖ではマリモが観光の中心になっている 。けれども何でそこだけだと思うな? 国後にもあるよ。


◎じいさんやばあさんの話はとっても面白い。 
世の中水道やガス・電気代を払わないかんから忙しく稼がないかん。ところが国後ではそんなものがないからみんなとてものんびりできる。

夜になるとランプを灯す。 寒くなったら割った薪を焚べる。 水は湧き水のおいしいのがあるからタダ。


食べ物だって自分で缶詰を作る。 信じられないだろうがな、空き缶をストーブの上に置いてカニでも魚でも茹でて、最後にハンダ付けして蓋をする。それで 一冬を過ごせる。」

といって大笑いしとる。なんでものんびりと自分でするから金はいらんし時間もたっぷりある。   実際そのとおりだ。


 

マルコはこの古老の言葉に痛く感心した。

全てを金に頼るお人は金の奴隷となる。よくいう拝金教

 

ヒマラヤの麓、ブータンでも逆だったが、まったく同じことを聞いた。
いままでのんびりとピクニックできたのが、現代の仕組み例えば電気や水道のインフラ、教育、家電製品を買うと支払いのために借金したりしてあくせく稼がなくてはならず人々は眉間にシワ寄せて悩みを多くした。・・・・・というのだ。

 

マルコも完全にそのとおりだと思う。


それに加えて、のんびり社会では 競争心がほとんどなかった

のではないだろうか。

錦の旗を掲げよう!
  あっほらし!競争するあほぅ、のんびり快楽最高

    Extreme Peace。   ( ^^)/□☆□\(^^ )